次ページへ

67ロックマンへもどる

前のページへ

Total:
Today:
Yesterday:








0030 山根麻衣 THE DAY BEFORE YESTERDAY テイチク コンチネンタル・レコード CI−16    1984



またまた、得体不明なアーティストを・・・と言われそうですが、山根麻衣さんです。
調べても意外と情報が少なく、そんな存在だったのか・・・と改めて認識を新たにしました。
断定ではないのですが、その一因はレーベル
や配給元に原因があったのでは?と推測してしまいそうです。
これは非難や中傷でもなく、テイチク・レコードの業界内での位置付けとか、企業の販売方針みたいな
当時の在り方が問題では?・・という気がします。
アナログ・レコード時代は上記のアーティストや、YMO散開後の細野晴臣氏がノン・スタンダードという
レーベルを立ち上げたりして、大衆性とは一線を画した路線を志向して
なかなか、マニアックな会社だなァ・・と感心していました。


 

S・F・X(1984年、テイチク/ノン・スタンダード)細野晴臣 with FRIENDS OF EARTH
銀河鉄道の夜 - NOKTO DE LA GALAKSIA FERVOJO(1985年、テイチク/ノン・スタンダード)※映画サウンドトラック
コインシデンタル・ミュージック - COINCIDENTAL MUSIC(1985年、テイチク/モナド)・・を発表しました。
・・・残念ながら、五年くらいで消滅してしまいました。

しかし、CD時代に突入してからは以前から洋楽にはイマイチだったのが更に悪しき方向に発展し
まともな作品は、なかなか無くて毎月にように発売していたのが、有名アーティストの海賊盤もどきのものでした。
アーティストが無名の頃の音源を、いかにものタイトルを付けて発売するというものでした。
例えば、エリック・クラプトンの「ブルース・ギター名演集」などど銘打って発売、
その時代・・ネットも無く情報源も乏しいものでしたから、おッ!と知らずに買ってしまい、いざ音を聴いてみると
・・・録音は最低、音源も定かではなく、ま、ていの良いブートもどきみたいなものでした。手にとって泣きましたネ!
ビートルズの初期=まだビート・ブラザーズと名乗っていた頃の音源をいかにも本物っぽく
タイトルをつけ乱発する・・・といった具合でした。
時代的には、彼らがまだ、こんな頃で、ドイツのハンブルグへ武者修行へ・・といった頃でしょうか。





このマイ・ボニーも表記は彼らとなっていますが、下のように、まだトニー・シェリダンのバック・バンドをやっていた音源で
この音源権利をもっていたポリドールがトニー・シェリダンの名を伏せて、いかにもビートルズの独演or
オリジナルぽく販売したシロモノです。何の知識も持たない中学三年生は、大分被害?にあったと
思われます。・・・が、市場的には枚数が少なくて後年プレミアムがついてしまいました。
今でこそ、下の写真のようにキチンと帯にも説明が付いていますが、当時は
写真のみ・・で堂々と出回っていたのです。泣かされたこと数回・・トホホです。
 



残念ながら、20年も前のため、画像は残っていませんが、そんな感じでした。
故に、仲間内では「テイチクには気をつけろ!」が合言葉になっていました。

ポリドールはまだ手のうちが可愛いほうです。・・今ではユニバーサル・ミュージックですが・・。
テイチクは・・・おっと誹謗・中傷のたぐいではなく、歴然とした事実でしたから・・。
ただ、誤解の無きように・・・こんなものばっかり発売していたわけではないと思います。
当時の関連各社、及び関係者の方々の名誉のために付記しておきます。
「♪そんな時代もあったのさ・・♪」でしょうか。

さて、その創業から追って見ていくと・・・


>1931年2月、吉川島次と、南口重太郎が合資会社帝国蓄音器商会を設立した。
>1934年、日本コロムビアから作曲家の古賀政男を引き抜き重役とし、録音技師と社員も呼び寄せた。
>東京進出に際して文芸部を銀座に、録音スタジオを杉並堀之内に置く。楠木繁夫、松島詩子を専属として主力歌手とし、
>年末にはディック・ミネも専属とした。



・・・この時代は、筆者の団塊世代より、10〜15年くらい先輩がリアルタイムでしょう。
それでも、子供ごころにTVで、晩年のディックさんの歌声を覚えています。
>ディック・ミネ(1908年10月5日 - 1991年6月10日)は徳島市出身の日本のジャズ・ブルースの歌手、俳優である。
>本名の三根 徳一(みね とくいち)
>生涯で4人の妻を持ち、“伝説のギタリスト”と謳われる三男の三根信宏を始めとする10人の子を儲け、
>天下のプレイボーイとして知られたミネであった・・
>「ディック・ミネ」の芸名は、ディック(英語で男性器のスラング)が非常に大きかったことからつけられたといわれる。
三根信宏=そうです!あのシャープ・ファイブの彼です。
つい最近、デジタル・リマスターされ甦りました!拍手!!思わず買ってしまいました。
写真、右から二番目が三根信宏氏です。
日本のエレキ界でも、寺内タケシとブルー・ジーンズと人気を二分した実力バンドです。

 

 

ご存じのように、初期には左ジャケ写真で、おわかりのように若き日の加瀬邦彦氏がメンバーとして参加しています。
当時、自分のオリジナル曲を作っては、寺内氏へ恥ずかしげにもっていき判断を仰いだそうです。
ブルー・ジーンズ在籍時の作品に、加瀬氏のペンになる、インストの想い出深い曲があって・・B面扱いでしたが
何度も聴いたことを覚えています。残念ながら曲名は忘れてしまいましたが・・・「雨の抒情・・?」とか・・・だったかな?
メロディがとても綺麗なステキな曲でした。中三の想い出です。
・・・こののちワイルド・ワンズを結成し、ブレイクし作曲家としてもジュリーの「おまえにチェック・イン」とか「トキオ」などの
大ヒットメーカーとして、70年代を駆け抜けていくのです。

 

さて寺内氏がアグレッシヴな神業的ギターとすると、三根氏は華麗で流れるようなプレイで双方とも異なる魅力をもっています。
ちなみに井上宗孝氏とは、バンマスでドラムを担当している方です。






上は、キング・レコード時代の作品ですが、コロムビア時代のこの作品が最高傑作ではないでしょうか。「春の海」です。
琴の宮城道雄氏の作品を、見事エレキで昇華し再現した傑作です。
左はオリジナルLPで、右が他の作品と組み合わされてCD化されたものです。
寺内氏の津軽ジョンガラとか運命と双璧をなす、日本エレキの大名作です。

 

 

現在の三根氏です。ご活躍中なので安心しました。

 

さてシャープ・ファイブは、あのGSのシャープ・ホークスのバック・バンドから派生独立したバンドでもあり、
当初はジャケットでも分かるように、2グループがクレジットされていました。
あのホタテマン=安岡力也氏も在籍していた渋めのGSグループでした。

 

遠い渚」は当時、タイガースのヒット曲を連発発表していた、すぎやま・こういち氏の作品でした。
抒情派ロッカ・バラードとして永遠の名曲でしょう。胸に沁みる、五臓六腑に沁みわたる逸品です。
今では、ゲーム=ドラクエの専属作家となって大活躍ですが、個人的には、この頃の作品が大好きです。
また、フォーク・グループの「ガロ」のこの曲もすぎやま・こういち氏の作品です。

 

♪・・・片隅で聴いていたボブ・ディラン♪・・の歌詞が、当時の喫茶店でスパゲティ・ナポリタンを食べながら
聴いていて、妙な感じだったものでした。まだ、ボブ・ディランのなんたるかを知らなかったからです。
もう時間ですよ、お帰りください・・のサインの昆布茶が出るまで粘ったものでした。
君の誕生日では、間奏のところに学生街の喫茶店のフレーズが挿入されたりして、
当時・・またこんな表現が出ました・・しかたないですね・・斬新なアレンジでビックリしたものでした。
ビートルズのサージェント・・の影響だったのでしょうか。

・・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
テイチクの話に戻りましょう。

>1936年、藤山一郎、美ち奴が入社。本店を奈良市肘塚町へ移転し、工場も設備拡大を行う。
>1938年、古賀政男退職。満洲国の新京に録音スタジオを新設して11月15日から録音を開始する。
>1944年5月25日に帝蓄工業株式会社と改称
>1951年1月6日に南口重治が新社長に就任。同年9月に米国デッカとの契約成立
>それに伴いSPレコードの品質が格段に向上する。 1952年2月にデッカレコードを発売。
>1953年4月1日に社名をテイチク株式会社に変更。
>同年、レコードの録音に磁気テープの使用を開始。
1954年、LPレコード、EPレコードの発売を開始
>1961年、杉並堀之内の録音スタジオ改築完成。同年9月11日に松下電器産業と提携
>1999年、経営不振のため同じ松下電器の子会社だった日本ビクターに経営権を譲渡した
>ビクターは飯田久彦を社長として送り込んだ。
>その際に現在の社名・テイチクエンタテインメントに改称した。
>2008年、日本ビクターがパナソニックグループから離脱し、
>ケンウッドと経営統合したのに伴い、テイチクもその傘下となり、パナソニックグループから離れた。



・・・この松下電器の傘下に入った当時は、暦年のスポンサーであるTV番組「水戸黄門」の最後の場面の
タイトル・バックに一連の企業がずーっと流れるので、それを見て分かりました。

このときも、メジャー会社になったのだから、今度こそショボイ真似は止めてくれ!と念じたものでしたが
相変わらず前述のような作品群を発売して、なんにも体質は変わらないものだな・・と落胆したものでした。
まともになったのは、ここ数年来の事だったでしょうか。(失礼!)
洋楽の60年代のゾンビーズ(日本では、カーナ・ビーツの好きさ好きさ・・でおなじみの元歌グループ)の正式盤の発売や
ちょっとブリティッシュ・ロックの奥の森に深く入りますが、英ロック・バンドのテンペストの発売が、そのころではなかったでしょうか。
上記の・・
日本ビクターに経営権を譲渡した頃と符号しますので、ビクターからの方針がそうさせたと思われます。
・・現在では、正規な?マニアライクな、あのBIGヒット(あとで触れます)も含めてバラエティ豊かな作品を良心的に発表しています。

前述の>1999年、経営不振のため同じ松下電器の子会社だった日本ビクターに経営権を譲渡した
>ビクターは飯田久彦を社長として送り込んだ。

・・ですが、飯田久彦氏はご存じですね。60年代初期のアイドル歌手だった方です。

 

 

>飯田 久彦(いいだ ひさひこ、1941年8月23日 - )は歌手・音楽プロデューサー
>1961年 - 『悲しき街角(Runaway)』で歌手デビュー
>1962年 - 『ルイジアナ・ママ(Louisiana Mama)』が大ヒットとなるが、その後人気が低迷
>1975年 - 日本ビクター入社。ディレクターとして松崎しげる、ピンク・レディー、岩崎宏美らを担当
>1988年 - ゲームミュージックのアルバム『ナムコット ゲーム ア・ラ・モードVol.2』の収録曲「恋のダーク・ホース」
>(ゲーム『ファミリージョッキー』のアレンジ曲)にて、久々にマイクを取る
>1990年代にはプロデューサーとして活動。
>1999年3月 - ビクターエンタテインメント専務取締役に就任
1999年6月 - テイチクエンタテインメント代表取締役社長に就任
>2005年6月 - テイチクエンタテインメント代表取締役会長に就任
>2006年11月 - エイベックス・エンタテインメント取締役に就任

・・・というわけですが、みなさんこの代表曲は知ってますよね。悲しき街角は米のデル・シャノンのカヴァーです。
そして、プロデューサー転向後、一躍彼を有名にしたのはピンク・レディーの爆発的人気でした
一億総UFO現象までおこした、あの二人組です。

 

・・・いつかは登場の場面が・・とは思っていたのですが、とうとうこの項でキマシタね。
デビュー時と絶頂期の二枚を並べてみました。片田舎の少女が見事に芸能界にはまって別人のようです。
下はアメリカ先行で発売されたアルバムです。この頃がもっともピークではなかったでしょうか。
当時、ロック専門店の輸入盤コーナーでも発見!ファクトリー・シール(LPを防護するセロファン状のもの)が
かぶさって、いかにも亜米利加の香りが匂ってきたのを覚えています。
 

 

アメリカでのライヴ盤と、アメリカでの最終作です。
LP 「ピンクレディー・イン・USA」 ’79
    「WE ARE SEXY」 ’79
 
 「キス・イン・ザ・ダーク」は全米デビュー・シングルで典型的なディスコ調サウンド、全米トップ40にチャートインしました。
「ピンク・タイフーン」はあのヴィレッジ・ピープルの「イン・ザ・ネイビー」、
「リメンバー」はアイリーン・キャラの「フェーム」のカバーです。
アルバム「WE ARE SEXY」は当時のディスコ・ヒットのカバー集で、
ドナ・サマーやヴィレッジ・ピープル等のヒット曲のオンパレードです。

 

・・・右のシングルの頃になると、次第に彼女らの人気にも翳りがさしてきた時期です。

簡単に、あのピンク・レディーの顛末記に触れてきましたが、皆様が一番詳しいと思います。
この手腕を買われて飯田久彦氏の人生が一変したようです。
さらに有名な逸話が残っているのが長山洋子さんの演歌転向のシナリオ劇です。

 

このヴィーナスでブレイクしましたが、その後演歌に転向し見事変身に成功しました。
この仕掛け人も飯田氏によるものでした。全国行脚でファンと総握手運動を展開して「蜩(ひぐらし)」の
ヒットを生みだしました。これには驚きました。

 

>1984年に「春はSA-RA SA-RA」でアイドル歌手としてデビューした。
>1986年にはショッキング・ブルーの「ヴィーナス」(実際にはユーロビートのアレンジでカバーし、
>この当時ヒットしたバナナラマ版ヴィーナス)を日本語にしたカバーがヒット。
>その後女優としての経験も積み、1993年には「蜩(ひぐらし)」で演歌歌手として再デビュー
・・・というわけです。
もう一つ、・・・ここで突然サザンが登場します。「チャコの海岸物語」です。



実は、このチャコというのは飯田氏の愛称で、当時ビクター音楽産業のディレクターとして在籍していた関係で
登場したものです。

サザンオールスターズ『チャコの海岸物語』

(作詞・作曲:桑田佳祐 編曲:サザンオールスターズ 弦管編曲:八木正生)
>当時人気を博していたアイドル・田原俊彦と歌い方を完全に真似した曲であり、この他の楽曲と比較して、
>桑田の声とは違う印象を受けるような謡口である。この歌い方は、2008年現在でもこの曲を歌うときのみ
>主にAメロでモノマネを交えながら披露している。
>歌いだしの歌詞「抱きしめたい」は、歌詞カードには記載されていない。
>2番の「愛してるよ」というセリフ及びそれに続く「お前だけを」という歌詞も記載はない(2005年の再発盤では記載)。
タイトルになっている“チャコ”とは元歌手で発売当時ビクター音楽産業のディレクターとして在籍していた
>現エイベックス・エンタテインメント取締役飯田久彦の愛称である。

>同じく歌詞に登場する“ミーコ”は弘田三枝子、“ピーナッツ”はザ・ピーナッツから取られている。
・・・・・という次第です。ここまでは、なかなか分からないものですね。
さらに>もっとも、この曲は桑田自身がイロモノの位置付けで製作した楽曲であり、
>いわく「街で流れていても『へぇー』ぐらいしか思わない、好きだけど嫌いな曲」で、ヒットはしたものの、
バンドとしては微妙な曲となってしまった。1990年に日本テレビ系の音楽番組『歌のトップテン』に出演した際、
「サザンの歴史上、最低のヒット曲です」と発言したこともある
>ちなみに同曲は同年発売のアルバム『NUDE MAN』、コンピレーションアルバム『バラッド '77〜'82』には収録されず、

 

>後にベストアルバム『すいか』『HAPPY!』『海のYeah!!』に収録された。80年代に発売されたシングルではサザン最大のヒットである。

 

 

・・・こうした背景を考えると、桑田氏はチャコの・・・をあまり重要にとらえていなかったのが
事実として分かってきます。ヒットと本意とはあきらかに異なることの証明でしょう。

すいかは、1989年7月21日発売。
>また限定生産商品であるため現在では入手困難であり、中古CDショップやインターネットオークションなどで
>高額の取引がなされていることも多い。ちなみにカセットの方が販売数が少ない為、よりレアなアイテムとなっている。
>価格は10,000円(税込)と大変高額である。
>この作品はすいか柄の缶ケースの中にCD4枚組もしくはカセット4本組、
>すいか柄のトランクス、パンティーがそれぞれ封入されているユニークなアイテムである。

・・・この1989年の発売当時の騒動は覚えています。
ファンの方であれば、誰もかしこも、このアイテム欲しさに東奔西走して探し求めていました。
記録によると・・・・・
>累計売上は約33万組(ビクター発表では50万組)。
>当時だけでなくどの時代にも1万円以上するCDがこれだけ売れるのは記録的な事である。
・・・何故、こんなに売れたのかの要因については、分析しているサイトなどはありませんが、
筆者は、あのバブル経済の時期と符号したのでは?と考えています。
>バブルとは概ね、1986年12月から1991年2月までの4年3か月(51ヶ月)間を指すのが通説であり、
>2002年2月から2007年11月まで69ヶ月弱続いた長景気(仮称・いざなみ景気)や
>いざなぎ景気(1965年11月〜1970年7月の4年9か月(57ヶ月)間が通説)に次いで戦後3番目に長い好況期間となる。
・・事実のとおり、すいかの1989年はど真ん中に位置し、それゆえサザンの人気も当然ながら
約33万組(ビクター発表では50万組)というビックリするようなバブル的販売数を記録したのではないだろうか。
あのジュリアナ東京の爛熟期でもありました。







仕掛け人はこの人でしたね。後年、介護事業にも手を出して、自縛の紐みたいになって消えてしまいました。
右のCDもシリーズでバカ売れしました。バブル風ディスコ・チューンといったところでしょうか。
続編みたいに、マハラジャ六本木みたいなものも現われたような記憶がありますが。

 

・・・こんなに売れたのに、あの騒ぎはなんだたのか?ということになりますが、一部熱烈なファンの方を除けば
無い物ねだり・・・の感が、否めませんが文字とおり手に入らぬから・・・他人(ひと)が欲しがるから欲しい・・
的な需要もあったのではないでしょうか?結果、手に入れたら、目的成就で飽きて売ってしまう方も多かったようです。

無い物ねだり
といえば、この人はどうしているのでしょうかねェ・・・。

 

・・・この歌詞がなぜか印象的で忘れられません。松本マジックでしょうか。中原理恵(1958年6月17日−)さんです。
♪東京ららばい 地下がある ビルがある
星に手が届くけど
東京ららばい ふれあう愛がない

だから朝まで
ないものねだりの子守唄
「東京ららばい」1978年=仕掛け人は・・作詞 松本隆 作曲 筒美京平

>1981年から1982年にかけて、「欽ドン!」の人気コーナー「良い妻、悪い妻、普通の妻」で「よし子」「わる子」「ふつ子」の三役を演じ、
>それまでのシリアスなイメージを打ち破る弾けたコメディエンヌぶりで人気が爆発。
>演技力、カンの良さ、トークの切れが高く評価されることになったのですが・・・
以前もご紹介しましたが、左のシングル=1982年・・は、あのナイアガラの大瀧氏の作品でもありました。


 

・・・いまごろ、どうしているのでしょうか?この世界、つい目を離すと消え去ってしまう方が多いですねェ。
あるブログの記事では・・以前、中原理恵さんが
派遣で清掃の仕事をしているとありましたが本当なのでしょうか。
たしか、YMOの高橋幸宏と噂になったと思います。かたやビールのCMにでて、高額なギャラをもらい、贅沢な生活をしているのに
噂になった中原さんが派遣で清掃では、寂しすぎる。小学生の頃、東京ララバイ好きでした。
(答え)中原さんさすがですね。今はビルメンテナンスの会社を興して活躍なさっています。
・・・・・とありました。今年で50歳となる計算ですが見事な転身です。

あちこち話題が飛んで主題がなかなか見えぬのですが、どうぞご了承ください。

ここらで、ちょっと休憩TIME・・
水戸黄門さまが出てきたところで、この方に登場してもらいましょう。
予定調和過ぎでしたでしょうか。
なんでも、入浴シーンのギネス記録を目指していらっしゃるとか・・・。

 

18歳未満の方は、ご退場ください。

 

 

 

  

 


さて、大分寄り道をしてしまったので本題の山根麻衣さんのアルバムに戻りましょう。
これに参加したメンバーは下記のようになっています。
この時代の風習か、日本人なのに英語表記となっていますが、前項同様見ずらいっすねェ・・・。
読む気がしなくなります。カッコイイシー(これも死語ですね)かor当時のトレンドか判断できませんが
気持ちが萎えてしまいます。
でも一番下に見えますね。柳ジョージ氏の名前が
このつながりか、後年の彼女の活動の礎となります。



>山根 麻以(やまね まい、1958年10月9日 - )は、日本の歌手。
島根県出雲市生まれ。2001年に『山根麻衣』から『山根麻以』へ改名。

>ハスキーボイスでシャウトに優れるが泥臭いイメージが強く、当時はソウル/ロック系の楽曲では販売が期待できず
>彼女の特色を生かしつつもAORテイストで売り出された。
> ロック色のより強いものになったがヒットとはならず、知る人ぞ知る存在に・・・。
以降、その黒人音楽への傾斜を表すように、柳ジョージと活動を共にする

・・・下三枚は当時のシングルです。やはり、SSWとかのイメージではありませんね。
ヴォーカリスト然としたスタンスが伝わってきます。その下に最近の彼女のスナップを掲載してみました。
マイペースで頑張っていらっしゃるようです。

 

 

 

さて、柳ジョージ氏といえば、GSのゴールデン・カップスに在籍していたことをご存じですか?
もっとも、大分後期の頃ですが。意外や、当時はベースを担当していたのです。
バンドには、名手=エディ藩氏がいたからでしょう。右は後のゴダイゴのミッキー・吉野氏が映っているので
彼もちょいと後の加入なので、後期の写真だと思われます。
主なメンバーは、変遷もありますが次のとおりです。

結成時のメンバーは以下のとおり。脱退後、解散後の目立った活動は()内に。

デイヴ平尾(1944年11月17日 - 2008年11月10日)
本名:平尾時宗。リーダー、ボーカル。2008年11月に食道癌のため死去。
エディ藩(1947年6月22日 - )
本名:潘廣源(人名事典では潘の字で記載)。リードギター、ボーカル。
ルイズルイス加部(1948年11月5日 - )
本名:加部正義。ベースギター(後に、チャーなどとピンククラウド結成)。
ケネス伊東(1946年1月1日 - 1997年)
アメリカ合衆国・ハワイ州オアフ島出身の日系アメリカ人二世。本名:ケネス・イトウ(Kenneth Ito)。サイドギター、ボーカル。
マモル・マヌー(1949年6月3日 - )
本名:三枝守。ドラムスだったが、再結成後はボーカルに専念。

その後、以下のメンバーが途中時期に在籍した。 ミッキー吉野(1951年12月13日 - )
本名:吉野光義。キーボード(後にゴダイゴのリーダーとして、大成功)。
林恵文(1951年5月11日 - )
ベースギター。
アイ高野(1951年1月12日 - 2006年4月1日)
本名:高野元成。ドラムス(カップス以前は「ザ・カーナビーツ」、
以後は竹田和夫率いる「クリエイション」のボーカルとして、それぞれヒットあり)。
柳ジョージ(1948年1月30日 - )
本名:柳譲治。ベースギター、ボーカル(ソロでヒットを出し成功)。

  

多くのGSの中にあって、『長い髪の少女』『愛する君に』などのヒット曲はあるものの
もっぱら当時のアメリカ・イギリスで流行していたロック・ポピュラーの曲を演奏した異色のいうか、玄人受けする
バンドとして君臨、日本のロックの黎明期にあって、その礎を築いたのではないでしょうか。
米軍キャンプ廻りで鍛えた、ソウルフルなロック魂が魅力的なバンドです。

 

 

 

個人的には、『長い髪の少女』が忘れられません。70年安保学内闘争の紛糾の中で
傍観主義などと、過激な連中から非難を浴びつつも、同じサークルの可愛い女の子が好きになって
コンパで酔っぱらうと長い髪の少女を彼女にだぶらせて大声で歌ったものでした。
相の手の♪どうぞ〜・・を、誰かが気を効かせて歌ってくれると、もうノリノリの大合唱大会でした。
いやはや、この年になっても、あの頃は人生で一番輝いていた時だったんだなァ・・・と
恥ずかしながら思い出されます。こんな感慨を・・・トシになった・・と言うのでしょうか。
左はオリジナル・レコード、右は晴れてCD化になったものです。それも24bitですから
迫ってくる音が違います。いい時代になりました。

 

 



残念ながら、柳ジョージ氏の在籍時の写真はありませんが、それを裏づけるような文献がありました。
デイヴ平尾とお二人で雑誌の記事で本牧のアレコレを対談形式で綴ったものです。
左=柳ジョージ、右=デイヴ平尾・・各氏です。

 

・・・が、しかし1972年1月2日をもって正式に解散。
1997年、伊東がハワイで死去。2006年、アイ高野が死去
2008年、リーダーのデイヴ平尾が死去




・・・残念でなりませんでした。よくTVで、あのころのGSは今!?的な番組で
スナック経営のかたわら、マイクを手に歌っていましたが・・・。
この間も、追悼も兼ねてか、彼なしのカップスがTVに登場していましたが、エディ藩氏が一人で
気を吐いていたようでした。筆者も含めて、皆さんオトシでした。・・当たり前ですが。




>柳ジョージ(1948年1月30日 - )
>本名:柳譲治。ベースギター、ボーカル(ソロでヒットを出し成功)。
在籍期間:('70〜'72)
>高校に通う頃には独学でギターをマスターし、アマチュア・バンドを結成、
>ギターとヴォーカルを担当した。68年、パワーハウスを結成し本牧を拠点に活動し、
カップスの兄弟バンドとうたわれた
>ニューロック勢の代表格として、ロック・フェスティバル等で活躍したパワー・ハウスだったが、
>70年3月に解散。同年9月に柳はケネス伊東の後任としてカップスに加入する。
>最後の沖縄火事でメンバーの中で唯一自分の楽器を確保して逃げたというエピソードはメンバーの間で語り草になっている。
72年のカップス解散までベースをつとめた。



最近の作品ですが・・・。



本項の0003でも登場しましたが、なんといってもこの三部作が一番でしょう。





日本語盤と英語盤、どちらも覚えてしまったような気がします。
この化粧品会社のタイアップ曲もヒットしました。右は化粧品屋さんで販促物として配布されたものです。

 

この時期の、メンバーが作ったオリジナル曲も粒揃いでした。
柳ジョージ:ボーカル・ギター
上綱克彦:ボーカル・キーボード リーダー 
石井清登:ボーカル・ギター
ミッキー・ヤマモト:ボーカル・ベース
四ツ田ヨシヒロ:ボーカル・ドラム
鈴木明男:ボーカル・サックス・フルート  

フェンスの向こうのアメリカ、青い目のステラ・・とか、当時のAV(オーディオ・ヴィジュアル・・ことです)界のトレンドだった
レーザー・ディスクを買ってきて毎日のように観たものでした。
この初代機から買い続けていました。当時、ビクター陣営がVHDという対抗メディアを開発し、
市場は、すわッ!また、テープのVHSとベータの戦争の再来か!と話題になったものでした。



こちらが、VHDです。簡単に区分すると、ディスクが接触式か非接触式に絞られるみたいですが
出はじめは、甲乙つけがたくAVマニア(オーディオ・ヴィジュアル・・ことです・・クドイですね)としては両方買いました。
しかし、AV歴史史上でも伝説となっている・・13対1の攻防戦で、VHD陣営=13社に対し
LD陣営はパイオニア1社のみ・・というなか、見事LD陣営のパイオニアが市場を勝ち取りました。
VHDの主な敗因としては、接触型ため再生中に針飛び起す不具合があった。
これはディスクとの相性にも拠るところも大きかったが、安定性においてはLDとの差は歴然としていた
そのためランダムアクセスが売りなのに、
サーチ機能は使い物にならなかったと言われている。
またスペックもVHDは水平解像度240本で音声がFM変調(HiFi)だったので、ノーマルVHSと何ら変わらなかった。
対してLDのスペックは、水平解像度430本で、現在のS−VHS以上の能力を持っていた。
・・ゆえに、見ていると、どうしてもLDのほうが綺麗なのです。
そうして、こうしてVHDは市場から姿を消してしまいました。
ソフトは中古屋さんでたまに見かけますが100円程度です。



この教訓が効いてか、効かずか次世代VHD東芝陣営のHD DVDソニーのブルーレイとがまたもや
バッティングして・・大騒動となり、市場も混乱したのは皆様ご存じのとおりです。
さすがに、歳を経た?筆者は今回ばかりは両方には
手を出さず情勢を見極めることにしました。
先立つものも無いのが、ホントの理由かな?
結果、米映画界のソフト陣営獲得・・いや、米映画界ブルーレイを選択された東芝が市場から撤退することに決定!
・・・結果オーライでした。東芝のHD DVDを先買いした方などはTVのインタビューで憤っていました。
無理もありません。当初は20万台の価格でしたから・・・。
東芝も、この顛末で○億の損失を出したみたいです。

これが、東芝のHD DVDでした。今となっては懐かしい限りです。ソフトは半額程度で処分されているみたいです。





とんでもない方向へ話題が飛んでしまいました。
本題に戻って・・・。レイニー・ウッドの面々です。ちょっと後年のスナップですが。



最近、再結成されてご活躍のようです。個人的には石井清登氏の控え目なギターが好きでした。

  

 








次ページへ

67ロックマンへもどる

前のページへ

Total:
Today:
Yesterday: