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0029 能瀬慶子 ほほえみプレリュ−ド(前奏曲) キャニオン・レコード C25A−0046    1979

おや?またか・・と言われそうな感じですが、覚えている方はいますか?
なんでこんなB級?(ファンの皆様には失礼)アイドルを、取り上げるとは!もっとマシな子はいないのか?
・・・とお叱りを受けそうですが、メジャーすぎても面白味がないのでお付き合いください。
筆者も彼女の名前程度しか記憶がありませんでしたが、星の数ほどいるアイドル群の中で、なんで覚えているのか?
・・自分でも定かではありませんが、きっと例の臭覚が働いたのだと思います。
はたして、この方のバイオを紐解いてみたら、ビックリするほどあっけない幕切れでした。

>1963年(昭和38年)3月16日 - )
>千葉県に生まれ、東京都文京区で育つ。
>1978年(昭和53年)高校在学中に第3回ホリプロタレントスカウトキャラバンで優勝。
>同年映画出演を果たし、1979年(昭和54年)にNAVからシングル『アテンションプリーズ』で、歌手としてデビュー。
・・という事で写真がデビューアルバムです。
下が裏ジャケットです。




さすがにホリプロ優勝ということもあって、封入された歌詞カード・リーフレット類は力が
入っていて廻りの意気込みが伝わってきます。これが、そうです。

 

8ページにわたる豪華なものです。上右のキャッチ・コピーが時代を物語っています。
中のページです。彼女のお部屋の様子が自筆のイラストで描かれています。







こんな手書きが、ファン心理をくすぐるのでしょうね。
これを食い入るように見入った方も多かったのでしょう・・でも雰囲気でてますよね。ウマイ!
アップされた彼女ですが、レコード・ジャケットのほうが良い感じです。これでは中学生では・・・?





歌詞カードに記載された、彼女のプロフィールです。ホリプロ友の会なんてあったんですね。・・時代です。
右はレコーデイングのスタッフですが、流行りだったのでしょうが英語表記は外人(これも死語か?)ならまだしも
やめてほしかったですね。これが時代のデザインのトレンド表記だったのでしょうが、
読みずらくてしょうがありません。読もうとする前に、なんだかうんざりしてしまいます。
でも、よく注意してみると、AGに吉川忠英氏の名前がクレジットされています。
彼は、日本のフォーク界の重鎮です。セッション・アルバムは数知れず・・。ギターを抱いた渡り鳥?ですねエ。
キーボードには、故羽田健太郎氏の名前も見えます。
故人をあれこれ、いまさら云々するわけでもないのですが、彼は根っからのお酒好きで
公私にかかわらず、四六時中飲んでいたそうです。それでは体がもちません。
出光の「題名のない音楽会21」の司会の当時も、そうだったんでしょうか。多分・・・です。

 

 

>吉川忠英氏は高校在学中にニューフロンティアーズの瀬戸龍介と出会い、ギターと歌を学ぶ。その後加入。

>1971年に渡米、同時にバンド名を「EAST」に改め、西海岸を中心にコンサート活動を行う。
>和楽器を効果的に取り入れたフォークとして注目を集める。
これは若き頃のソロ作品です。



・・・ですが、ロックキチの筆者は、当時この「EAST」のレコードに興味が湧き、国内では東芝配給のレコードを、
とても気になりお店で手にとっては棚へ返し、また取ったり・・・
予算=小遣いの関係上、断念したのを今でも鮮烈に覚えています。無念だったナァ・・・。

その代わりに買ったのが、あのGSのランチャーズのリーダーだった喜多嶋修氏の「弁才天」というLPでした。
彼も、GS後は渡米して日本人で表現できるROCKとは何か?を極めんと燃えていた時期でした。

 

そうです。ランチャーズは加山雄三氏とは、所属が同じ東芝ということもあって、なかばバック・バンドめいた時期も
あったようです。右のEPの段階では、まだ喜多嶋氏は未加入だったようです。

 

下のジャケでは、一番左が喜多嶋氏です。







「真冬の帰り道」なんといっても、これが一番の大ヒットでした。
間奏のバロック風?の意表をつくようなギターのアイデアは喜多嶋氏のものでしょう。そのセンスに脱帽でした。
ちなみに、ランチャーズの命名は多分、加山氏でベンチャーズのゴロのパクリですね。
ランチは、進水とかの意味だと思われます。
このあと、ワーナーから右のような作品も発表していました。

 

というのもこの頃の日本の洋楽界はGS時代を経て、ロックとしての黎明期を迎えていて、世界に通用するようなサウンド創りが出来るように
なっていたからです。「EAST」も、こんな時代の最先端だったわけです。
また喜多嶋氏もそういった時代を的確に判断し、渡米して和楽器と欧米ロックとの融合を模索していた時期です。
「EAST」も座禅をくんだりしてのジャケで、日本をアッピールしています。良いバンドでした。右はCDのレーベル面です。
彼らより、世界的に成功をおさめたグループに「フラワー・トラベリン・バンド」がいますが
ここまで突っ込むと、本稿のテーマが逸れていきますので今回はパス・・・次回の機会に是非!
最近、再結成し活動を開始しましたので興味津々ですが。

 

喜多嶋氏の渡米の際、日本のアイドル・シーンが話題騒然となりました。
この人をご存じですか?そう、内藤洋子さんです。



>1965年、東宝にスカウトされ、黒澤明監督の『赤ひげ』の「まさえ」役でデビューする。
>翌1966年、恩地日出夫監督の『あこがれ』に主演し、ゴールデン・アロー賞などを獲得、また、テレビドラマ『氷点』にも主演し、
アイドルとして一世を風靡する。歌手としても活躍し、松山善三監督の『その人は昔』の挿入歌、『白馬のルンナ』は大ヒットとなった。
>東宝では、一つ年上の酒井和歌子と同時に青春スターとして売り出しを図っていたが、内藤洋子の方が売れるのが早かった

 

 



>『伊豆の踊子』や『年ごろ』、『地獄変』などの作品に出演し人気を博したが、
>1970年に音楽家の喜多嶋修と結婚して、惜しまれながらも芸能界を完全引退した。

・・ということで、世間をあっといわせた事件でした。

女優の喜多嶋舞は長女。>舞が二歳の頃(1974年頃)、家族共々アメリカ・カリフォルニア州に移住した。
>喜多嶋との間には舞のほか渡米後に出生した長男と次女がある。

皆さんは、この前後事情をご存じでしたか?
当時の筆者は、ホント!ビックリしたものでした。
内藤さんと喜多嶋氏を結びつけたのは、加山氏は映画でも彼女と共演したりしていることが
あったのではないでしょうか




こんな映画の一コマもありました。

さて、本題の能瀬慶子さんに戻りましょう!

裏ジャケの帯です。当時のアイドル状況が偲ばれます。お名前、覚えてますか?



本サイト名物レーベル面です

 

さてこの作品の出来具合となると、ホリプロの審査基準には「歌唱力」というものがあったのかorなかったでしょうか?
・・・という具合で、残念ながら、これは彼女を見て愉しむレコードで歌を聴くものではないようです。
彼女には大変失礼ですが、アルバム一枚を歌い込むには無理があったようです。
それでは、なんで取り上げるのか!とお叱りをうけそうですが・・ま、今しばしお待ちを・・・。

>1979年には「赤い激突」以来約1年ぶりに復活した赤いシリーズ第8作「赤い嵐」にヒロインとして出演。



>記憶喪失の少女・小池しのぶを演じた。二重人格による豹変ぶりは当時評判となった。
>また、記憶喪失時の「ここはどこ、私は誰?」という演技はその後お笑い芸人などによってしばしばパロディのネタにされた。
1983年(昭和58年)20歳で引退した後、ミュージシャンと結婚し2児の母となった。
>引退後、湯島天神で太鼓を叩く姿がテレビ放映されたことがある。

・・・といった次第で、シングル4枚とこのアルバム1枚を出して芸能界から消えていきました。
やはり、歌唱力に限界があったのでしょう。LP一枚とはあまりにも寂しすぎます。

文字通り、タイトルと同じ=前奏曲で終わった・・というオチがついてしまいました。

 


もう一つこのアルバムを取り上げたのは、実は次の複線があったからです。
冒頭に述べた、レコキチの臭覚がはたらいたようでした。
このアルバムの作曲者たちです。が・・・です。
じっくり見ていってくださいね・・・・


 

そうです!
売れない時代の浜田省吾氏が、1stシングルも含めて5曲も作品を提供しているのです。
まだ、「悲しみは雪のように」や、J−BOYも何も存在しない時代でした。

★喜多嶋舞さんに触れておきましょう★

 >喜多嶋舞は1986年に奥田瑛二と共演したフジフィルムのコンパクトカメラ「ニューカルディア」の CM でデビュー。
>14歳ながら母・洋子譲りの美貌で一躍注目を浴びました。
>後藤久美子と列んで当時の芸能界に巻き起こった美少女ブームの一翼を担いました。
>喜多嶋舞の音楽面として知られたのは,1988年に父・修がプロデュースしたシングル「Whisper」で歌手デビューしたこと。
>それがフジテレビで挿入歌となった主演ドラマ「ときめきざかり」や NHK 大河ドラマ「春日局」などに出演して女優活動を開始しました。
 >1988年にテレビドラマ「ワイルドで行こう!」で共演した光GENJIの元メンバー,
>大沢樹生と1996年6月にできちゃった結婚して一男をもうけましたが2005年に離婚,2007年に写真集の仕事で知り合った男性と結婚しています。

・・・こんな顛末は皆さん、もうご存じですよね。

最近の画像を・・・前述のお父さん・お母さんの事件からは想像もつかぬ展開でした。
人生は・・・人と人との別離と邂逅は・・・分からぬものです。

1960年から1970年代の音楽のサイトという性格上、大人の方しか興味がないと思いますが・・・
※念のため、あなたは18歳以上ですか?はい・・ならご入場ください。
18歳以下の方は退場願います。


・・・・…・…・…・…・…・…・…・…・…・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 



  

ちなみに、内藤洋子さんは・・・・前回のアグネスとジョイントしてました。






「飛んでイスタンブール 」でもないですが、能瀬慶子さんから浜田省吾氏まで来てしまいました。



これも御大=筒美京平氏のセンスが冴えわたる名曲です。イントロに中近東あたりのメロディ・ラインを
効果的に使って大ヒットとなりました。
この曲「異邦人」もですね。同様にイントロとエンディングに中近東風・・これは、明らかにトルコの軍楽隊のメロディです。
それをもとに、先にご紹介した名アレンジャー=井上鑑氏が、いかにも異国風に調理して
一度聴いたら忘れないインパクトのある曲に仕上がって、これも大ヒットしました。
何故、トルコの軍楽隊のメロディを知っているのか?・・・というと、脚本家の向田邦子さん
「阿修羅のごとく」がNHKでドラマ化された時、番組のイントロに使われていたからです。



それまでトルコの軍楽なんて知識がなかったので、気になっていたのですがエンディングのタイトル・バックに
ちゃんと使用楽曲「ジェッディン・デデン」と説明があったので、これで分かったのです。
独特の哀愁の漂うメロディ・ラインです。かつてのオスマン・トルコ大帝国を謳歌しているかのような旋律です。
最近では、CMの「明治乳業の十勝チーズ」で所さんが♪・・メイジ・・トカチのチ−ズ・・♪と歌っていて、メロがトルコの軍楽風で
あぁ・・またパクったな・・ということもありました。(写真を掲載しましたが、メーカーさんからは
何かいただいて
いるわけでもありません・・・念のため(・_・;))



・・・調べたら、>所ジョージさんが「作曲」ということになっていますが、
>所さんは意識してか無意識にか、このメロディーを使ったものと思われます。

・・・と判明しました。それにしても、さすが?所さん!自作曲とは・・知らない人は信じてしまいますよね。




また、これも大ヒットしましたね。



これらが大ヒットした当時は、日本人にとって海外旅行がようやく身近なものになって、
ジュディ・オング『魅せられて』もヒットしていて「無国籍ポップス」の流行の時期だったようです。
畑中葉子さんと言えば、それこそ平尾昌晃氏とのデュエットで…「カナダからの手紙」
「エーゲ海への旅」
「サンフランシスコ行き」
「ヨーロッパでさようなら」
・・という、海外を舞台にした4部作まであったようです。

さて、本題の浜ショーですが、今年で御歳=57歳になるようです。
どうしても、イメージが80年初頭のころにかぶさってしまうのですが、皆様はいかがですか?
筆者と同世代ということになるのですが、彼自身も影響を受けたアーティストとして・・・・影響という表現は
的確ではないと思いますが、敢えて表現すれば「刺激を受けた・・」というところでしょうか。
なにせ、中学生時代の頃でしょうから。

 

・・・を筆頭にあげています。この頃は団塊の世代がすべて、なんらかの形で影響を受けた
といっても過言ではないでしょう。音楽性・ファッション・生き方etc・・本当に刺激的でした。
今年(2009)の9月9日に、初めてのデジタル・リマスターCDの全世界同時発売が報道され話題になっています。
先日、連休のあいまを縫って、ETCの高速1000円の恩恵にあずかるべく東北自動車道で
仙台へ行ってきましたが、路面のお店では、早くも予約受付中!と大々的にプロモをかけていました。
当然目的はレコとCD漁りの旅ですので、各店のPOPが眼に飛び込んできます。
思わず、ニヤリ!・・・としてしまいましたが、それだけ団塊のファンにとっては待ちに待ったシロモノなのです。
現在のCDは、おそらく1987年くらいの時点のリマスターで、とても録音レンジが低くて
聴けたものではありませんでした。ブートの方が音が24ビットだったりして音が良いくらいでした。
つい、このビートルズが出ると調子に乗ってしまうのですが、公式213曲あるうち、
アタマを歌ってみろ!と言われたら・・即座にハイッ!と全曲、喉からでそうです。♪♪(゜▽^*)ノ⌒☆
2009/9/9とは、多分ゴロ合わせで決定したと思われますが、オリジナル・アルバムを含めると
10数枚になります。国内盤だと一枚あたり2600円ですので総額○万円となり、嬉しいかな、悲しいかな、
オリジナル・モノラル・ヴァージョンまでBOXで出るとのことなので、これを入れると全総額二桁万近くになりそうです。
・・・今から、ふところ按配を思案中です。トホホ・・・です。(・_・;)

さらに、浜ショー氏は、こんなグループまで挙げています。ヤング・ラスカルズです。



これは、同作品のCD化されたものです。



かの山下達郎氏も一押しのグループのひとつでもあります。

   

ラスカルズは白人でありながら黒人のフィーリングを持ち、ブルー・アイド・ソウルと評された、60年代後半のアメリカを代表するバンドの一つ
です。本稿は邦楽メインのコーナーですので、あまり深くは触れませんがブルー・アイド・ソウルとは
黒人のブラック・ソウルに対して、ブルー・アイド=つまり青い眼をした白人の歌うソウル・ミュージックを指します。
アメリカ人の造語でしょうが、実に言い得て妙です。
日本でも人気の「グルーヴィン」や「自由への讃歌」、「ビューティフル・モーニング」等多くのヒット曲を放ったグループです。
読んで字の如しで、ふつうのロックよりソウルフルでノリも良くファンキーで
筆者も大好きな範疇のロック音楽です。トシを経て好きになってきました。30代頃はあまり感じませんでしたので
人間の感性なんかは、意外と・・・曖昧さor適当さor未熟さ+成熟さが混在して成り立つものなんでしょうか。

話を戻して・・・これらのグループと浜田省吾氏の音楽性を連想できますか?
なかなか、むずかしいですよね。

 

まだまだ、おります。この人が一番音楽的にも影響下にあったのでしょうか。
ジャクソン・ブラウンです。
左は彼の初期の代表作=今でも色あせぬ名盤です。1974年の作品。
ライヴの写真は70年代のものです。・・この辺で、浜田氏との接点が見いだせるのではないでしょうか。
あの尾崎豊さんも多大な影響を受けたアーティストです。

  

 

いまさらながら、ジャクソン・ブラウンは、アコースティックなサウンドで、あのイーグルスとかとも接点のある、
アメリカにおけるシンガーソングライターというジャンルを確立した一人です。
ウエストコースト・ロックの代表者の一人です。





最後に、当然この方もおりました・・・・・・ボブ・ディランです。
ビートルズ同様この人に影響されなかった、日本のフォーク・ミュージシャンはいなかったでしょう。

 

・・・ということで、浜田省吾氏の音楽的ルーツが次第に見えてきました。
今でこそ、J−POPなどと独立してカテゴライズされていますが、こうした海外の偉大なアーティストによって
さまざまな影響を受け、そこからオリジナリティが生まれ、ようやく芽吹いた経緯があって=日本の音楽史が存在するのです。

さて、次回はいよいよ浜田省吾氏の世界に・・・・。

★別冊付録★
畑中葉子さんが登場しましたので・・・・ジャケット耽美館へようこそ?

 






まず、最初に・・・>浜田 省吾(はまだ しょうご、1952年12月29日 - )は、広島県竹原市生まれ。
>1975年、愛奴のメンバー(ドラムス)としてプロ・デビュー。
>デビュー時からサングラスがトレードマーク。1976年にソロ・デビュー。
・・といった経過から、80年以降にメジャーになってから、この愛奴時代のレコードが珍重され中古市場で
一躍、高値を付けました。愛奴自体があまり売れなかったこともあって、市場に出回るブツも少なくウナギ昇りの事態でした。
ファンの間では、幻の名盤扱いになって、まずこの愛奴を知らなければ浜ショーは語れない・・
となって異常とも言える現象がおきたことを覚えています。
現に筆者もアナログでの作品は、お目にかからなく仕舞でしたが、これほどの騒ぎになるほどの大傑作というものでは
なかったようです。当時の彼の人気が生んだ副産物・・といったところでしょうか。
・・・時間が経って、めでたくCD化になり音源自体はマボロシではなくなりました。下がそうです。



二枚のシングルです。

 



当時のメンバーとのスナップです。サングラスがトレードマークなので直ぐ、彼だと判明します。
それにしても、ネーミングの愛奴とは奇妙な名前ですね。
なんか英語の単語のひっかけなのでしょうか。
桑名正博のヒット曲「哀愁トゥナイト」は英語での表記の、i should tonight をひっかけたようです。
仕掛け人は作詞家の松本隆氏でした。



日本語題と、この意訳=i should tonight=今夜しようぜ!・・でしょうか?のWミーニングで面白かったですが、
愛奴はどんな意味だったのでしょうか。愛すべき奴ら・・・と解釈できそうですが、気のせいでしょうか・・
なんかSMチックな響きで聞こえてしまうのは筆者だけでしょうか。



>1974年、吉田拓郎の全国ツアーのバック・バンドに愛奴として参加。ドラム経験は1年程しかなかったが、
>必死で練習してツアーに間に合わせた。
>同年7月発売のよしだたくろう・かまやつひろしのシングル「シンシア」のB面「竜飛崎」は愛奴の演奏である。
・・という事実が判明、シンシアは知っていても、このB面まで針を落とすことは
なかった気がします。無知とは恐ろしいものですが、まさかこの時代に、このB面で・・・
とは誰も考えませんよね。しかし対極に位置するような拓郎と、こんな関係があったなんてことが面白いことです。

しかし、>1975年に愛奴としてアルバム『愛奴』とシングル「二人の夏」でレコードデビュー。
>当時、CBSソニーでは同社始まって以来の大プロモーションを行い
浅田美代子の「赤い風船」(売上80万枚)を上回る100万枚以上のセールスを見込んでいたというが・・・

 

>実際には全く売れず惨敗という結果であった。バンド内での自分の存在や、
>シンガーソングライターへの憧れもあり、同年9月に愛奴を脱退。
>愛奴の全シングルA面は浜田が手掛けており、当時からソングライティングの意欲や素質を備えていた。

・・・といった顛末がありましたが、こののち拓郎と浅田さんが結婚する・・ということに発展するわけで、芸能界or
フォーク界も狭いといえば狭いものです。
>70年代はレコード会社の意向もあって、「ポップなメロディーメイカー」としての曲作りを迫られる。
>本人は変わらずロック志向だったものの、周りに言われるがまま作家的な曲作りを続ける。
>しかし、セールスには恵まれず、苦悩と挫折の中で精神的にも落ち込んでいく。
>1979年8月、日清カップヌードルのCMソングとして書いたシングル「風を感じて」がスマッシュ・ヒット(オリコン25位、10万枚)
>このヒットを機会に、自身のやりたい音楽を表現することを決意する。



・・・これは、リアルタイムで覚えてます。とてもキャッチーなメロで、easy to be free なんて歌詞も斬新でした。
一般的な浜ショーファンは、ここからが原点ではないでしょうか。
いや!このデビュー時からだ!という根っからのファンの方も多いかもしれません。
なんと言っても、J−BOYが一番だ!という方も案外多いかも・・・。

 

>1980年、6thアルバム『HOME BOUND』リリース。それまでの職業作家的な曲作りから、
>本格的ロックに音楽性が変化する重要作。初の海外レコーディング作品で、
ニッキー・ホプキンスTOTOスティーヴ・ルカサーなどアメリカを代表する一流ミュージシャンが参加した。



ここで初めて、彼自身が志向するロックを表現できたのではないでしょうか。
ニッキー・ホプキンスは英米ではスタジオorセッション・ミュージャンとして、とてつもなくBIGな人です。
60年代から70年代のロックの名盤と称されるアルバムには、かならずといっていいほど
彼の名前がクレジットされています。E・クラプトンがギターの神様であれば・・・



このアルバムなんかは、神棚に飾っておきたいくらいの歴史的名盤です。右から二人目がクラプトンです。
>ヤードバーズのポップ・ヒット・ナンバー「フォー・ユア・ラヴ」に嫌気がさし、
>グループを脱退したエリック・クラプトンが純粋なブルースを求めて、
>ジョン・メイオール率いるブルース・ブレイカーズに参加した唯一のアルバムです。
>ここで聴かせるクラプトンのギターは、大好きなブルースを演奏する喜びを感じながら伸び伸びとプレイしていて、
>クラプトンの歴史上においても屈指の名演と言えるでしょう。
>実際この頃「Clapton is god!/クラプトンは神だ!」なる落書きが発見されたと言う噂もあり、
>ここでのプレイ振りを聴いていると、興奮したファンがそういうことを考えても不思議ではないかも知れません。
下は、近年のスナップです。



・・・これがニッキー・ホプキンスの代表作です。涙が出るほどの良いアルバムです。
ロック界のキーボ
ード、ピアノの神様みたいな方です。残念ながら故人となってしまいました。

 

>ニッキー・ホプキンス(Nicholas Christian Hopkins, 1944年2月24日 - 1994年9月6日)は、
>イギリスのミュージシャン。ピアノ、オルガンと言った鍵盤楽器を演奏し、1960年代から70年代にかけてのイギリス、
>アメリカにおけるポピュラー・ミュージックのセッションに多数参加した。
>ロック史上における重要なセッション・ミュージシャンの一人として見なされる。



手前でピアノを演奏しているのが彼です。バックに映っているのは、もちろんR・ストーンズの、左=キース、
右がミックです。70年代のR・ストーンズがノリに乗っていた頃です。

さて、TOTO(トト)といえば・・・デビュー作がこれです。1978年発表。



最近のライヴ画像です。



右の彼がスティーヴ・ルカサーです。近年のスナップですが・・・



>TOTO結成は、ボズ・スキャッグスが男と女の官能的な世界を描いた『シルク・ディグリーズ』(76年)の

 

>レコーディング・ミュージシャンとして寄せ集められたことに端を発する。
>数多くのセッションに参加していたテクニカルな猛者ぞろいであっただけに、78年にリリースされたデビュー作『宇宙の騎士』の
>完成度の高さは言うまでもなく、ビッグ・ヒットを記録。
>そして82年の『聖なる剣』で彼らの人気は頂点に達し、ついに全米No.1を獲得する。
>このアルバムからは「ロザーナ」「アフリカ」などの名曲が生まれ、その年のグラミー賞はTOTOの独壇場となった。
>彼らのシンプルかつポップなサウンドを多くの人は商業ロックと呼ぶが、実はもっと奥深いものである。
>ジャズ/フュージョン/ソウル/R&B/プログレ/ロックなど、個々の幅広いバックボーンを結集し、
>職人気質なスタジオ・ワークで磨き上げ、抜群のバンド・アンサンブルで鳴らされている音なのだ。
>なかでも、ジェフ・ポーカロのグルーヴ感みなぎるドラミング、スティーヴ・ルカサーが奏でる軽やかでエッジの効いたギターは、
>TOTOのサウンド・カラーの中枢を担っている。92年、ポーカロの死によって解散が噂されたが、
>サイモン・フィリップスを新ドラマーに迎え、活動を再開。
>現在も、熟年バンドのフェロモンを飛び散らせながら存続中だ。

・・・どうでしょうか?こんな面子を集めれただけ、当時の浜ショーの勢いを感じとれます。
日本人でこれだけの英米のバック・ミュージシャンを従えてアルバムを制作でした彼は幸せの極致だったに
違いありません。浜ショー・ロックの誕生でしょう。

・・…・…・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その後の彼の活躍は、もう皆さんご存じですね。



先のNHK・TVの音楽リクエスト番組=あなたのあの時の一曲は?的な内容でしたが、数多くの曲を抑えて、
この曲=B面の「もうひとつの土曜日」の方がTOPになりました。
J−POPの数百以上の中から選出された名曲中の名曲と認定されたわけです。
サザンやZARDという強豪を尻目にお見事の一語です。
きっと、歌詞の内容とメロディがジャスト・フィットしてのことでしょうが、これが万人の心を捉えたということは
もう、押しも押されぬ大アーティストとしての勲章を頂いたという事でしょう。
筆者も、トシながら我が青春のあの時の一頁を想いだしてしまいました。



・・若手にも、彼の生き様、音楽人生が受け継がれていくようです。


巻末特別付録 こちらも、浜しょうサンです

  

 

 

 

 

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