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0001 ヴィーナス LOVE
POTION NO.1 国内 徳間音楽工業 BMD-1012 ほか 1980
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これは、いいグループでした。オールディズをロックン・ロールで・・がとても斬新でした。 |
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0002 よしだたくろう エレック時代と元気です |
たくろうが番外編なんて、どうもすみません。本稿は邦楽を中心に進めていくコーナーです。
コレクター的には、写真のエレック時代のアルバムが一番、入手しづらいアイテムとなっているはずです。 それも帯付きになると、なかなか出会わないものです。 版権の問題で、表紙をなぞったようなLPも見たことがあります。 たくろうの一番魅力的な時代として、このエレック盤をあげる人が多いのは、未完成の順朴さからくるのではないでしょうか。 「人間なんて」を中津川フォーク・ジャンボリーの川べりで延々とぶっ続け歌った逸話はもう伝説化しています。 岡本おさみとの邂逅も、一つの転機になったと言えるでしょう。両者のタッグマッチでこれから次々と名作が誕生していきます。 当時、洋楽中心だったので、リアルタイムでは、元気です・・が最初のめぐり会いでした。 B・ディランの嵐が吹きすさいで、カルチャー・ショック的に多くのミュージシャンが影響を受け、神とも仰ぎ奉られました。 日本フォーク界は、小節と歌詞が合わぬ、はみ出し字余りの曲が溢れかえり、模倣も自作というような風潮でした。 良し悪しは別にして、早くから脱却して自らの世界を築きあげてのは、よしだたくろうでしょう。 個人的には、やはり「落陽」が一番好きです。「襟裳岬」もいいですねェ。 ロック的観点では、70年後期「王様たちのハイキング」ツアーが最高だったと思っています。 よく、レーザー・ディスク(もう、死語かな?)を観たものでした。DVDで又、見直したい作品です。DVD化されたかな? |
0003 柳ジョージ&レイニーウッド 1st−3rd 1977-1979 |
weep' in the rain・・・
これも流行りましたね。日本語と英語の2バージョンが出たりして、どちらも覚えてしまったり・・・。 彼はGS後期のゴールデン・カップスに在籍していたことは、あまりにも末期だったので覚えてる方は少ないようです。 以来、苦労を重ねようやく陽の目を見たのがこの作品でした。その前はドサ廻りとかで口糊をしのいでいた時期もあったようです。 それはこのあと80年頃に出版される「敗者復活戦」という著書に詳しく書かれています。 当然、廃版となっていて今となっては読むすべもありませんが・・・。 これは出版社の当時の企画の一端で、彼の前があの矢沢栄吉の「成り上がり」だったのです。 ご存じのように、この作品をもとに現在、映画化が進められているようです。 SONYのブルーレイのCMに出たり、一時は少し落ち気味だった彼が再浮上してきたようです。 何もマスコミに売れれば良いというものではありませんが、そういった面では実力等とかと関係なく人の運命とか 生き方とかは誰にも分からないものかもしれません。 ただ時間のみ結果を示してくれるようです。 柳氏は徳間というレーベルから、メジャーの当時のパイオニアに移籍し、ほどなくこのバンドを解散させます。 ソロになって、彼の本来の目的であったアメリカのアトランティック・レーベルから(日本の配給ですが)念願の作品を発表します。 1stのジャケットにはその思いが溢れんばかりにアトランティック・レーベルのロゴがアップされています。 R&B志向のアーティストの究極の願いはアトランティックかスタックスからレコードを出すことなのでしょう。 そういえば、彼は故レイ・チャールスの大ファンだったようです。 数作リリースして「アトランティック・ワイアー」という作品を出したころから、その縛りに耐えかねたのでしょうか? 日本のE・クラプトンと異名をとる彼ですが、エイちゃんとは生き方を別にして頑張っているようです。 その後、アトランティック・レーベルから移籍してしまいました。 話を戻して柳ジョージ&レイニーウッドというのはジャズの名曲の Willow Weep For Me - 柳よ泣いておくれ ・・から命名されたのではと、ずいぶんあとから思ったのですが ヒット曲=雨に泣いている・・もこれに符号しませんか。バンド名もしかりです。雨の森ですものね。 当時はなんとも思わず、ましてジャズの知識など無く考えもしませんでしたが30年も経ち あれッ・・と思いついたという後日談で終わらせていただきます。 ご参考までに、件の曲のあれこれを付記しておきます。 Willow Weep For Me - 柳よ泣いておくれ もっとも成功を収めた女性作曲・作詞家の一人 アン・ロネル(1906or8〜1993)が 彼女の音楽キャリアに大きな影響を及ぼした ジョージ・ガーシュインに捧げた曲 Willow Weep For Me - 柳よ泣いておくれ 柳よ泣いておくれ、 私のために泣いておくれ |
0004 竹内まりや レコードベスト 1984 |
ピクチャーレコードが全盛期だったのは1979年から1985年のころでしょうか。 アイドル初回盤!などのキャッチで、本当に色々なヴィニール盤が登場して、それまで レコードは黒という概念を取り払ってくれました。 集めるのも、これまた楽しい・・そんな時代でもありました。 レコードは黒でなければ・・という固定観念は開発当初は無かったそうです。 ただ塩化ヴァイナルであれば良し!と、そして落ち着きさ等から単純に黒とされたようです。 これはピンクのまりやさんのベスト盤です。綺麗ですね。 そして裏ジャケの写真も実に初々しいこと・・・「セプテンバー」は男ながら楽曲の良さで 口ずさんでいました。彼女も達郎氏と結婚し時があっという間に過ぎ去り 今年、齢50歳ということです。 これを記念にベストCDも10/1に発売されました。 キャッチコピーがいいですねェ。 ユニバーサル・ストリートの面影もちょっと残っているかな・・・解説分のブックレットの中の達郎氏が帽子をかぶり 庭園で何故かうつむいてギターを抱え、前にまりやさんがいるショット写真がとても印象的でした。 |
0005 山下達郎 FROM NIAGARA 1983 |
奥様が登場しましたので、今度は旦那さまの登場です。 達郎氏とくれば、大瀧詠一氏と連想されるように「ナイアガラ」=大滝・・というココロです。 筆者はそんなに「ナイアガラ」ファンで、コレクターというわけでもないのですが この世界のコレクターは鉄壁の城塞みたいにいらしゃるんですねェ。 ビートルズマニアにも匹敵するくらい、飽くなき追求するアイテムがあるからです。 フィル・スペクターから始まって、最近(といってもかなり前ですが)ではキムタクのTVドラマの主題歌まで。 話はそれますが、先日のTVドラマ堺正章主演の「無理な恋愛」のテーマソング「忘れもの」は あのメロディラインから、タイトルバックにはGajinとでますが、てっきり大瀧氏の変名かと思ってました。 Aメロ、Bメロからサビ、そしてコード進行、半音落ちなどから、絶対そうに違いないと断じていました。 ところが調べてみると、中村雅人という方の芸名=名前の部分をGajinと読ませるみたいです・・の作品でした。 あれほど、イイトコドリみたいなのは、ビートルズとクラトゥの関係みたいです。 意外と敏感な聴覚と思っていたのですが、これにはまいりました。 さて、「ナイアガラ」ですが、複雑にしている原因はレーベルの移籍が複雑で、といっても日本コロムビアと CBSソニーだと思いますが在籍期間が短かったり、同じアルバムでも45回転ものを出したり 大瀧氏の遊びこころ?によるところが大きいと思います。 また、変名嗜好で多羅尾伴内とか笛吹銅次とかでクレジットされるバージョンも込み入っているから と判断されます。上のアルバムもエンジニアとして笛吹銅次氏がクレジットされています。 また、歌謡曲の世界にも挑戦?して、森進一の「冬のリビェラ」、松田聖子の「風立ちぬ」、極め付けは 小林旭の「熱き心に」でしょうか。まだまだ金沢明子とか深ーい奥底が待ってます。 ナイアガラ時代の達郎氏のベスト選曲のアルバムですが、ふだんエサ箱でもあまりお目にかからないので 掲載してみました。ナイアガラのロゴが光りますね。 写真はオモテとウラです。 |
0006 シュガー シュガー・ドリーム フォーライフ 1980 |
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0007 ゆう子・菲菲・チヨ・ハーフ 東芝 197? |
これは、音楽編の最初の頃にご紹介した、東芝さん(と、言っても今は音楽界では、もう存在しませんね)の オハコ企画LPの後半戦のものです。 自社の歌手をピック・アップしての、いいとこ=曲取りのオムニバス盤です。 チヨさんも、すっかり大人のイメージで、恋の奴隷シリーズから脱却した頃でしょうか。 それとも、それ以前の路線が定まらぬ頃の時代でしょうか。 ゴールデン・ハーフが珍しいので、取り上げてみました。 収録曲は次の通りです。 なんか、曲を眺めているとゴールデン・ハーフ以外は、あまり馴染みが無く、皆さんどれだけ覚えていますか? どうも、ゴールデン・ハーフのノテッケ・・・を売らんがための企画みたいです。 ま、こんなレコードもリリ−スされていたという程度で、時代を感じてくだされば・・・。 |
0008 ラッツ&スター ソウル・バケーション エピックソニー 1983 |
なんとも豪華なアルバムです。 プロデュースが、あの大瀧詠一氏で、アルバム・ジャケットデザインがアンディ・ウォーホールなのです。 タイトルは、大瀧氏のロング・バケーションのモジリでしょうか。 この頃は、CD登場(1982年)と相俟って、アナログレコード文化も最高潮の時代ではなかったでしょうか? 一般には、まだCD派とレコード派が分かれていたりして・・。 GS(ガソリン・スタンドの意です)勤務の若者が、一気に時代に呼応して一躍スターダムに・・・。 シャネルズが、かのブランド名と同じとか一悶着あって、ラッツ&スターに改名したのですが、 ラッツ=RATS・・のスペルを反対にして・・STAR=スターとひっかけて命名されたのはご存じのとおりです。 あわせて、ラッツ&スターなんですね。ネズミと星?となりますが、ゴロの勝負ですね。 鈴木氏は、これを経て日本でも代表的なソウルフル・JPOPシンガーとなり大成しましたが、 例の田代氏は、ヴァラエティの主みたいな頂点までのぼりつめ、志村けん氏ともタッグを組み 順風満帆の果てに、あの事件をおこして・・・塀の中です。 人間分からないものです。 こんなに強力な面子りが固めた、本作品がスター・ダスト(星屑)になったとは・・・ 大瀧氏の手がけた仕事では、こんな事件は、これ以前以後皆無のはずです。 |
0009 石川セリ 楽園 日本フォノグラム 28PL−99 1985 |
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0010 河合奈保子 サマー・デリカシー 日本コロムビア AF−7285 1984/6 |
アイドルの人気が出てからの生き方ほど難しいものはありません。 柳の下・・・で、コケテ忘れ去られていくもの。 時代をとらえ、柳の下を見事にヒットさせ、次のステップへ行くもの。 路線を変え、役者やらVシネマやそちらの方向へ生きがいを求めるもの・・・さまざまなものです。 そんな中で奈保子ちゃんほど、見事に歌手路線を貫き・・そして普通のご結婚で芸能界とサヨナラ・・・ といった方も珍しい限りです。 CMに好んで出た訳でもなく、まして映画までは手をのばさず、このボディにしてみればその手合いの写真集も 乱発するわけでもなく・・・歌ひとすじでした。後半は自作自演に挑戦していました。 同期の柏原芳恵ちゃんは、ハロー・グッバイ(・・喫茶店)を一発当ててからは、80年中盤以降はその豊満なボディを売りに 生き残りをかけ、清純派からサヨナラしました。 それでは画像で見てみましょう。 こちら奈保子ちゃんです。なにかしら気品めいたものを感じます。 こちら芳恵ちゃんです。 ここまでくると、・・表現のしようがないです。 |