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0027 飯島真理 ロゼ(ROSE) ビクター音楽産業 SJX−30207   1983



飯島真理といえば、超時空要塞マクロスシリーズ(リン・ミンメイ) 役の声優・・・というほど
イメージが定着しているようです。
写真は彼女のデビュー作です。ここからすべてが始まったわけです。
デビュー作にして、プロデユースがなんと!坂本=教授=龍一氏が担当しています。
下の写真は、中ジャケの歌詞カードに印刷されたお二人のスタジオ風景です。



なんでも、真理さんから名指しで要請を受け、デモ・テープを聴いた教授が快諾したそうです。
この1983年当時というのは、YMOで世界制覇して目的達成成就からか「散開」(解散)して
いた時期にあたり、スケジュールが空いたのでしょう。

 

いわば音楽活動に、ノリの乗っていた時期です。自ずと出来上がりも教授の冴えが全編にあふれています。
歌詞カードを開いた場面です。この頃はこうした両面タイプの写真付きが流行ったようです。
レコーデイングは、これもまた80年初頭に開発されたデジタル方式を採用しています。
今は当たり前ですが、CDの台頭を目前にしての時代背景が偲ばれます。

 

レコードのスナップをアップしてみました。

 

参加した面子の一覧です。英語表記なので分かりずらいのですが、ギターは亡き、大村憲司、A・Gは吉川忠英、
ドラムは林立夫、ベースはこののち作曲家としてブレイクし、80年代を謳歌する後藤次利等が参加しています。
当時のシーンを代表するような人達ばかりで、作品の出来が悪いはずがない・・的強力陣です。
後藤氏といえば・・・おにゃん子、そして工藤静香の作品群が代表作です。
他にも、数えきれぬほどの作品を発表し、80年代を駈けていきました。
しかし、現在になって、とりたてて取り上げられないのは、もうこの頃から歌の消耗品化が始まって
いたのでしょうか。そんな気がしてなりません。

 

奥様となった・・・・この方も・・ですね。

 

さて、本題です。いつものようにレーベル面も見てみましょう。

 

出ました!これこそが彼女の永遠のシングル盤ですね。2パターン存在するようです。
これのイメージが、あまりにも強くて後年、彼女自身がマクロスから逃れるように
なった・・ということです。ご本人は、あくまでもSSWを志向していたのですが、アニメ・マニアにとっては
リン・ミンメイのイメージを彼女にオーバーラップされて虚像化されたことに起因したみたいです。
アニメのフィクションの世界のキャラクターを、実像化する・・・というハシリみたいだったようです。
ヒットしたのにもかかわらず、SSW派の彼女にとって、人間にとって何が幸せか?・・難しいものです。

 

 



その他の作品を見ていきましょう。雨傘のEPは映画のシェルブールの・・題名の発展系でしょう。
タイトル・ロゴ(昔はレタリングと称していましたが・・ふるーいお話です)まで、ソックリです。

 

 





これは、LPの裏です。やはり、こちらのほうが味わいがあります。




下はmidori発売の際の、宣材です。プロモにもお金をかけていたんですね。

 







こうして作品を見てくると、彼女のアルバムのモチーフは「色」だったんだな・・・と気が付きました。
ロゼ、白、緑、青、赤、レモン・・というようにです。並べて、初めて分かるものです。
熱心なファンの方なら、次作は何色が・・・と、きっと当時、発売されるたびに愉しみだったに
ちがいありません。これもコレクター心をくすぐる作戦だったのでしょうか・

 

 

 







比較的、最近のスナップです。もう、すっかり大人の女性になりました。
ご存じのように、彼女は米国人と結婚してアメリカに渡り、活動拠点は日本ではありません。



それでは、あらためて超時空要塞マクロスを呼んでみましょう!





 



現在も発展進化系らしく、80年代より、やはりキマッテますねェ・・・。
しかし、筆者にとっては、マクロスが発火点となって以後アニメ界に新風を吹き込んだ、『機動戦士ガンダム』や・・・





『新世紀エヴァンゲリオン』等の・・・





・・・の作品よりは、やはり70年代の、この元祖が一番想い出深いものがあります。

同系作品を生む事になる日本のTVアニメの歴史を語る上で避ける事のできない
記念碑的作品である・・これです!



マジンガーZです!これが何と言っても一番大好きです!
毎週TVに釘付けでした。

 

 









これは後期の作品ですが・・・みごと、オリジナリティは生かされています。



作者はもちろん、この方=永井豪氏です。他にもヴァイオレンス・ジャックやデヴィル・マン等代表作が
いっぱいあります。もとは故=石森(or石ノ森)章太郎氏のアシスタントからスタートして
独立後、ハレンチ学園などの大ヒットを飛ばしました。石川賢氏なども同期です。


 



主題歌はこの人でした。水木一郎氏です。業界では、アニキと呼ばれている大御所ですね。
でも、当時はそれほど知名度は高くなかったでしょう。
アニメ・ソングがorシンガーが市民権を得るのは宇宙戦艦ヤマトあたりからで、一部マニアの世界では
別ですが、声優という職業もまだまだ認知されるには時間がかかりました。


 

80〜90年代に、アニメとヘヴィメタルを融合した=アニメタルなんかも生み出して
アレンジもなかなかのものでした。

飯島真理からマジンガーZまでの、長〜い展開でした。それでは・・・

0028 アグネス・チャン LOVE SONGS THE LIFE RECORDS FA−11 HONG KONG   1975

今回はアグネス・チャンです。
・・・とは言っても、最後までアイドル展開はしませんので、お手柔らかにお付き合いください。
デビュー時は、アグネスちゃん・・なのかorアグネス・チャンちゃんと呼ぶべきか分かりませんでした。
ダジャレでもないですが、ホントしばらく謎?でした。
70年代アイドルの中でも、異国人(死語ですね。外国人が正解かな。差別用語でもありませんよね)のせいか、
読者=閲覧者の方でも、好みが分かれるタイプではないでしょうか?
決して、日本人ではないからとか、蔑視してとか、そういう視点ではありません。
しかし、本稿とは直接関係は無いのですが、当時60年〜70年代の日本において朝鮮人or中国人の方に対する
独特の人種観が残っていて、まだまだ閉鎖的な時代でした。
それは第二次世界戦争から起因する、日本の大陸侵略戦争の爪跡みたいな結果でした。

例えば、戦時中の中国大陸に於ける、七三一部隊=細菌兵器開発部隊がオモテ沙汰になったのは、つい最近・・といっても
10年くらい前のことでした。その残虐行為は日本の「あってはならぬこと」として長いあいだ、闇に封じられれてきたのです。
細菌実験に連行する現地人を「まるた」と称していたのは有名すぎる話です。
まるたが足らん!手配しろ!と言っては、罪のない方々が犠牲になっていった残虐な事実です。
また、朝鮮人の方を日本に強制連行して、鉱山等で過酷な労働作業を強いる・・

 

・・・そんな歴史的な背景が、人種観を変えていたのです。
筆者も、この時代=20歳中半くらいになっても、社会的には暗黙の了承事実みたいに
潜在的に残っていました。口には出さぬが・・・です。
・・戦後20数年も経ってもです。
現在の韓流スター・ブームとか、中国の飛躍的な経済発展を考えると有為転変の感です。
・・本題から大分、逸れてしまいました。
本稿は、あくまでも音楽サイトですが、アーティストによって、こうした歴史的背景も
踏まえなければ、しっかりと把握できない場合がありますので、ご了承ください。

ま、それは置いといて・・・まちがいなく、70年代のトップ・アイドルの一人であったことは間違いありません。
アグネス・チャン(Agnes Miling Kaneko Chan、中国名:陳美齡(チャン・メイリン)
日本名:金子 陳美齢(かねこ チャンメイリン)、1955年8月20日 - )は、イギリス領香港(当時)生まれの歌手

・・・現在では、大学教授、エッセイスト、小説家、日本ユニセフ協会大使・・・という肩書きを持つ
までに至っています。・・・この項では、ここは敢えて取り上げません。

70年代に戻っていきましょう。
写真のLPは、香港で発表された1975年の作品です。人気のバロメーターか、とても豪華仕様の三面見開きです。
下はジャケットを見開いた場面です。右端にレコードを挿入する仕組みです。
このレコは、たまたま中古屋さんで「珍しいなァ・・」と思って買ったものです。
この時代に、香港製にしてはかなりお金をかけているな・・と手に持ってビックリしたものです。
これだけでも、当時香港でのアグネスの人気を推察できようというものです。



オモテ面です。



こちら、ウラ面です。



内容を見ていきましょう。
中国語に、英語意訳等がついているので助かります。中国語を解読できる方は他愛のないことでしょうが、
これで大体の見当が付くというものです。

 

LET ME BE THERE は、あのオリビア・ニュートン=ジョンの大ヒット曲でしょう。
>LET ME BE THERE〜レット・ミー・ビー・ゼア (1974) ビルボード6位・・の、これです。



 

>オリビア・ニュートン=ジョン,(Olivia Newton-John, 1948年9月26日 - )はイギリス生まれ、
>オーストラリア育ちの歌手、女優。1970年代から1980年代半ばにかけて数多くのヒット曲を放ち、世界的な人気を博しました。
それにしても美人でしたねェ・・。

さて、アグネスですが、参加ミュージシャンもちゃんとクレジットされています。







台湾盤などを見ると、怪しげな?表記のものが多く、ホントかな?と思う時もありますが
これだけキチンとしていると、本物=正規盤と納得させられます。

さて、それでは日本デビューのきっかけは?というと・・
>香港のテレビ番組で知り合った平尾昌晃氏によって日本に紹介され、
>1972年11月25日にワーナーパイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)より「ひなげしの花」で日本デビュー。
>当初の衣裳はロングであったが、ミニスカートに変えて人気が急上昇したいきさつがあります。
蛇足ながら、イメージを壊すようですが、アグネスは実はボ○ンで、本人はそれをひた隠ししていたという逸話があります。
もったいない?話ですが、当時の中国の美人観では、細身のスラッとした体型が良しとされて
いたんでしょうか?事実、当時の彼女のスナップがあります。
いかがですか?水着とは言いながらも、すごい○○です。次からのジャケット集からは想像もつきませんんね。

 

寄り道はここまでにしておいて・・・まず、なんと言ってもこれでしょう。





これは今でも歌えます。御一緒にどうぞ!♪丘のうえ ひなげしの花が・・♪ 懐かしいと共に、名曲ですね。
また「草原の輝き」は同名異曲があります。かの有名なグループの・・・



これも、アグネスに負けず劣らずの名曲です。案外、こっちのほうを覚えている方が多いかな。
続いて・・見ていきましょう・・・







今度は、アルバムをピック・アップしてみましょう・・・

 

さて、ここから本論に入ります。
アグネス・チャンと、あの日本の代表的ロック・バンドのムーン・ライダーズが合体するのです。
このお話は、アグネスがピークを過ぎて、そしてムーン・ライダーズが一般的に認知されてから
レコード・コレクターズの間で再認識され、隠れアイテムとしてマニアの間で話題になりました。

この背景として、下積時代の
ムーン・ライダーズが浮かび上がります。それは・・・
ムーンライダーズは、はちみつぱい(1971年結成、1974年解散)を母体として1975年に結成されたロック・バンドである。
結成は1973年で当初は「キャラメル・ママ」と名乗っており1974年にティン・パン・アレーにバンド名を変更しているが、
バンド名以外は音楽性を含め全く同じバンドである。
>彼らははちみつぱいで為せなかった「音楽で食べていく」事を優先させるため、
>まず、アグネス・チャンのバックバンドを行うことによりバンドの経済的基盤を確立させた。
>1975年2月1日青森県五所川原にて初めてアグネス・チャンのステージに立った。
>その後、香港ツアーにも帯同するなどしてバックバンド活動は1976年2月まで続いた。
>こうした活動はキャンディーズなどのバッキングへと続く。

・・といった理由により、こんなトッピなコラボが実現してしまったのです。
これが、そのライヴ盤です!
その後のムーンライダーズを考えるととても想像だに出来ませんが、現実の生活は厳しいものです。
これで体力をつけていったのでしょう。

75年のライヴ・アルバム
演奏はムーン・ライダーズ(矢野誠、鈴木博文、鈴木慶一、樫渕哲郎、椎名和夫、武川雅寛、溝渕新一郎、植田芳暁)
植田芳暁は、ワイルドワンズの彼です。







ここに、ハッキリと
ムーン・ライダーズのクレジットが見えます。
ライヴならではの選曲が面白いですね。ビージーズからエルトン・ジョン、さだまさしまでバラエティ豊かです。

また、下の作品=小さな日記では
「キャラメル・ママ」として数曲クレジットされています。
加藤和彦も参加しています。
コレクターズ・アイテムとしては、こちらのほうに軍配が上がるかもしれません。
ライヴより、スタジオ盤が・・という理由によるものです。
熱心なライダーズのファンでなければ、見落としていまいがちなアイテムですが、マニアは決して見逃しません。
ここがマニアたる所以(ゆえん)で、この事情を知らない中古屋さんは、アイドルのバーゲン箱に葬り?
ご存じの博識?のお店は、壁に飾って・・あのムーン・・とPOPを張り付けたりしています。
商売の分かれ道というところでしょうか。




正式に表現すると、鈴木慶一とムーン・ライダーズとなります。
押しも押されぬ日本のロック・バンドです。代表作はこれでしょう。

火の玉ボーイ(1976年1月25日)







日本のロックでは、このハッピー・エンドのアルバムと双璧をなす作品でしょう。



鈴木慶一とムーン・ライダーズの面々です。



時を経て、貫禄が増してきました。



鈴木慶一氏といえば、その業績はあまりあるものがありますが、筆者はこのプロデユース作品が衝撃的でした。



あの頭脳警察のパンタ=中村治雄氏の「マラッカ」1979年発表・・です。
 1979年発表のこのアルバムは頭脳警察時代から数えれば、通算9枚目、
PANTA&HALとしてはファーストアルバムになる。

これを初めて聴いたとき、洗練されたサウンドと様々なところに仕掛けられたセンスが、パンタの毒気を
抜き取らず、見事に調和させた仕事ぶりに鳥肌がたちました。
個人的に言及すれば、日本ロック史の3本指に名を連ねる名盤だと断言したいほどです。
紙ジャケ化も実現して、リマスタリングもいうこと無し!是非、機会があればお聴きください。
頭脳警察のアルバムは、あまりにも政治社会的に過激な内容のため長らく廃番の憂き目にあっていましたが
さきほど、めでたくCD化が実現しました。

 





近年のスナップですが、パワーが伝わってきます。

 

パンタを、あまりご存じない方は以前にも取り上げましたが、この井上陽水氏の前夫人=石川セリさんの
ムーンライト・サーファーの作者といえば、あぁ・・あの曲の・・と想いだされるのでは。







ついレコキチ癖で、こんなものまで見つけてしまったのですが・・・



前項でご紹介した、桑名正博氏の実妹=晴子さんの盤です。

さて、本題のアグネスに戻りましょう。
香港で発売されたカセット・テープです。





上の作品が、何故いきなりカナダ録音になったのか、タイトルがアゲインなのか・・は、次の理由です。

>1976年に芸能活動を休んでカナダのトロント大学へ留学(編入学)し社会児童心理学科に入ったが、
>1978年にトロント大学を卒業後、8月に日本に戻り、吉田拓郎作曲の歌「アゲイン」で芸能活動を再開。
>復帰コンサートツアーのひとつとして、中国人歌手としては初となる日本武道館でのコンサートも行った。
>レコード会社は次の「やさしさ知らず」からSMSに移籍。



SMSレコードとは、今はもうなくなってしまいましたが、その昔(こんな表現になっていまいます)ミュージック・テープの
老舗として栄華を極めた、アポロンが設立した会社です。
サウンド・マーケティング・システムズの略です。
設立にあたって、一番の問題はいかに売れ線のアーティストを集めるか!です。
有名なのは、日本コロムビアから独立した日本クラウン・レコードの顛末記です。

>1963年9月、日本コロムビア常務兼レコード事業部長だった辣腕プロデューサーの伊藤正憲が、
>三菱電機の支援を得て独立。
星野哲郎(作詞家)、米山正夫(作曲家)、美空ひばり、北島三郎、水前寺清子らが伊藤を慕い行動を共にした。
>最初に契約した新人は西郷輝彦。
>日立グループのコロムビアから三菱グループへの鞍替えには困難が伴い、
>北島の楽屋を訪れた斎藤と星野が脱藩の決意を眼力だけで訴えたという経緯は
>盃事に脚色した『兄弟仁義』に昇華、レコード・映画化され大ヒットし同社の礎を築く。

・・という逸話がありますが、このエピソードは機会があれば・・・。
もどって、SMSが白羽の矢を立てたのは、小柳ルミ子でした。

 

これは、当時業界でも大きな話題となって一躍SMSを有名にしました。
当初は、ワーナー時代の吹き替え盤をリリ−スしてましたが、「いまさらジロー」「おひさしびりね」がスマッシュ・ヒットし
彼女の履歴に花を添えました。
その後まもなく、販路とか種々の問題を抱えて、SMSは消失してしまいました。

それから、時を経て・・・今では・・・・

 



またまた、蛇足ながらSMSが一番ヒットさせたのは、この桑江知子さんではないでしょうか。
皆さんも、このいきなりサビから始まる・・・覚えてますよね。
また、後年になってアーティストの沖縄出身ブームが起こりましたが、この人が走りではなかったではないでしょうか。




・・・話を戻して、その移籍組の中にアグネスもいたという訳です。
そんな状況を表すかのように、こんな面白い2つのシングルがあります。





同じ作品なのに、レーベルのみが異なるという珍現象です。B面が違いますが。
たまにありますが、移行期の契約期間の隙間を狙って出されたものと思われます。
最後に、後年のスナップを・・・・・それでは・・・・・。





こんなBOXものまで出ていました。


オマケ・・・こちらは、アグネスちゃんです。







 



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