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0035 ビートルズ DNA=遺伝子 から・・・Mi-Ke から パロディまで ・・・



なんで、Mi-Ke?なんて声が聞こえそうですが、あれから18年も経って今にして思えば
実にユニークなグループでした。当時は単純に面白がって聴いていたのですが・・。
端的に言えば、アイドルグループとしては1991年にデビュー。振り付けを意識した当時のアイドルグループの形態をとりながらも、
アルバムごとにテーマを定めたリバイバル・カバープロジェクトであったと言う事になるのですが、
仕掛け人の長戸大幸氏の趣味が大胆に反映された創り上げられた
グループとも言えます
発表された作品は次のとおりです。

<アルバム>
想い出のG・S・九十九里浜 (1991年4月13日)
懐かしのブルーライト ヨコハマ ヨコスカ (1991年12月16日)
忘れじのフォーク・白い2白いサンゴ礁 (1992年4月8日)
太陽の下のサーフィン・JAPAN (1992年7月22日)
朝まで踊ろう 悲しきテディ・ボーイ (1992年10月14日)
甦る60's 涙のバケーション (1993年6月2日)
永遠のリバプールサウンド?Please Please Me, LOVE. (1993年12月8日)
complete of Mi-Ke at the BEING studio (2002年12月20日)
BEST OF BEST 1000 Mi-Ke (2007年12月12日)
>Mi-Ke(ミケ)は、宇徳敬子、村上遙、渡辺真美の3人のB.B.クイーンズの音楽コーラス隊
>(オリジナルロゴには「Presented by B.B.クイーンズ」と書かれる)であり、後にアイドルグループとしてデビューした。

GSからマージービートまで、実に多種多様な、まるで多羅尾伴内(大瀧氏ではなく片岡千恵蔵です)みたいな
変幻自在な活躍ぶりでした。蛇足ながら、前回も触れましたが、この東映映画も子供の時に
近くの映画館に観に行ったものです。小学校の頃です。物語の顛末など分からず拳銃で
バンバン撃つのが刺激的だったんですね。大瀧氏が、この名前を使用した時はビックリしたものですが
意味するところは、神出鬼没、変幻自在のサウンドといったところでしたか・・。
>片岡千恵蔵主演で、1946年(昭和21年)?1948年(昭和23年)に大映が4作品を、
1953年(昭和28年)?1960年(昭和35年)に東映が7作品を製作し、興行的に大成功を収めた。
・・・筆者が観たのは多分この頃の作品でしょう。
>千恵蔵が七変化の活躍をするという痛快無比な面白さが大評判となり、
>とくにクライマックスの名台詞「ある時は○○、またある時は××、
>しかしてその実体は……!(ここで名乗りを上げる)」
は多くのファンによって模倣された。
・・・この台詞は、子供心にもちゃんと記憶があります。

 




なんと、昭和53年(1978年)には小林旭氏も続いたのですが、第一弾でコケタみたいです。
やはり、
片岡千恵蔵のあのドスの効いた声がたまりませんものね。

 

本題に戻って、この仕掛け具合に、ビートルズDNAが聴きとれるのです。
それは、
長戸大幸氏の嗜好性がぷんぷん匂ってくるからです。
>もともと、Mi-KeのコンセプトはB.B.QUEENSのプロデューサーでもある。
>長戸大幸が作り上げたもの。大のポップス・マニアとして知られる長戸は、
>50〜60年代の洋楽シングル・コレクターとしては業界で右に出るものはいないとまで言われている。
>学生時代、親から貰うパン代を節約してまでシングル収集に費やした、
>という執念の収集は3万枚以上にも及び、そんな長戸の青春時代を彩った音楽がそのまま
Mi-Keのバック・グラウンドに反映されているのは間違いない。
・・・という歴然とした事実が証明しています。
>長戸 大幸(ながと だいこう、1948年4月6日 - )は音楽プロデューサー・企業経営者で、
>大手音楽会社ビーインググループの創業者・総帥・芸能プロモーター、ギタリスト・ドラマー。

実際、アルバムを聴いてみると
リバイバル・カバープロジェクトであった彼女らが、
カバー曲以外で、そのDNAぶりを発揮しているのには予想外でした。
カバー曲はいくら長戸大幸氏が手管を労しても、ちょいと消化不良の曲が多いのです。
逆に、デビュー曲の想い出の九十九里浜とかPlease Please Me, LOVEとかの
オリジナルのほうがDNAテイストを感ずるのです。
当時リアルタイムで聴いていた頃が新鮮でインパクトがあったような感は否めません。
時間を経たせいか、それともこれが実際なのかは人間のその時点の感性の度合によって左右されるので
ズバリの結論は出せませんが、なんか稚拙に感じられてしまうのです。
ともあれ、一時代を構築したグループに間違いありません。
あれこれ論議してきましたが、この1stが一番でしょうか。
>ビーイングのサウンド、アレンジ、パロディを含めたプロデュースが光り、
>レコード大賞、日本有線大賞、全日本有線放送大賞(現・ベストヒット歌謡大賞)、
>ゴールドディスク大賞と各音楽賞の最優秀新人賞を総ナメにし、『第42回NHK紅白歌合戦』(「想い出の九十九里浜」)にも出場。
>そして、長戸はMi-Keで徹底して遊んでいる。というかパロっている!



 


このシングル盤は、'92年7月22日にリリースされた、「朝まで踊ろう」です。C/Wは、「星空にTEARDROPS」が収録。
この「朝まで踊ろう」は、長戸大幸氏が創った名曲(作詞は、たち ひろし)
※この楽曲を最初にリリースしたのは、舘 ひろしで、
その後、Mi-Ke、THE 虎舞竜がカヴァー
しています。

 

つい最近、このアルバムを購入し早速聴き直してみました。
11曲入りで、なんと1000円というお買い得値段です。プラス最新リマスタリングが施されていて
文句なしです。そして収録曲はやはりオリジナル曲が多く前述の指摘のとおり長門氏も
彼女らの事をわかっているなァ・・と実感した次第です。当たり前でしょうが・・。



さて、洋楽の方へ眼を向けてみよう。
ビートルズDNAを持つアーティストや、パロディでもひねりの効かせたバンドなど数が多く存在します。
まず、これなぞは・・・
ユートピア (トッド・ラングレン「DEFACE THE MUSIC」 1980年 です。
右がビートルズのオリジナルLPですが、ジャケットまでパロッテます。
原題の「DEFACE THE MUSIC」(音楽を汚す、冒涜する)も、
神聖なるビートルズの楽曲をいじってゴメンナサイといった意味を含んでいます。、
しかし、ただのパロディで終わらないのがトッドの凄いところ。
全曲が、「ビートルズっぽいけど、実にいい曲」なのです。
ビートルズっぽくするという縛りを自らに課し、その条件下でどれだけいい曲を書けるか」という限界に挑んでいるのです。
だから楽しんでやっているというより、彼らは真剣勝負です。
ビートルズのオリジナル曲の音の機微をどれだけ知っているかが、このアルバムの愉しみ方なのです。
出てくるサウンドに思わず苦笑いの大洪水になってしまいます。
例えば、I've Just Want To Touch You という曲は・・抱きしめたいぜ・・という邦題が
付けられています。原題も原題ですが邦題も・・・です。(笑い)

 

 

同様に左がラトルズで、右が日本の話題盤=ザ・バッド・ボーイズです。
ザ・バッド・ボーイズの方は、LPが希少価値で中古市場で高騰が続いていましたが、見事CD化に
なりました。演奏はサビが転調しない?「抱きしめたい」で有名です。
また、バッド・ボーイという曲もビートルズが演っているので、それからの拝借です。

ラトルズですが、完全に歌詞も含めた全編ビートルズのパロディをこれでもかと迫ってきます。
ただの
パロディに終わっていなのはグループ内に才人=ボンゾ・ドッグ・ドー・ダー・バンドのニール・イネス(Neil Innes)が
いるからだと思われます。その徹底ぶりは素晴らしいものがあります。

 

 

よーく見てください。4枚とも全部ジャケ・パロディです。とくにアビィ・ロードなんかは本物と区別が
難しいほどの出来栄えです。これぞパロディの極致とで表現すべきでしょうか!
これも見事、紙ジャケCD化になりました。是非、ご一聴を・・・。下の映画のサントラとして
登場しましたが、もうサントラの域を超えてしまっています。タイトルも、4人アイドルです。



正統派といえば、このパイロットでしょう。
どちらかというとポール直系のDNAを受け継いだ、泣きのメロディ満載の必聴バンドです。
英EMIなのにオリジナルCD化が遅れています。これも7不思議の一つで何ででしょうか?
業を煮やしたかフランスの「C5」という会社からCD化されましたが、これも廃番です。
こんな良いバンドは滅多にいるものではありません。EMIジャパンさん!是非、紙ジャケ復刻24ビット
リマスターで出してください。右は後年アリスタに移籍してからの作品ですが、これもひと悶着ありましたが、
目出度く紙ジャケCD化、さらにSHM-CD化までなりました。
左 「セカンド・フライト」パイロット 1975

 

国内でも大ヒットしたシングルです。

 

この他に、
バッドフィンガー日本では杉真理氏等がいますが、この辺は次の機会に・・・。

※これからは、18歳未満の方はご退場ください。

原 幹恵(はら みきえ、1987年7月3日 - )さん
 です。

 

  

 

 


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0036 映画 『ビートルズがやって来る ヤア ヤア ヤア』「ポップ・ギア」の想い出から「心の旅」まで

『ポップギア』(’65)
『ビートルズがやって来る ヤア ヤア ヤア』(’64)
1964年に日本で公開されたビートルズのスクリーンデビュー作。

どちらも中学生の頃でした。映画館が隆盛をきわめていた頃です。
こんな地方都市でも上演されるのか?と友達と連れだって観に行きました。
レコードでは毎日のように聴いていた、あのビートルズやアニマルズ等がスクリーンで
現われるのです。まるで夢のような出来事でした。
目の前で彼らが歌い演奏するのです!興奮しました!
入れ替えという制度がなかった時代ですので、当然?2回も観ました。

なんでこんなロックおやじになったか、いうと多分この映画のせいかもしれません。
歌うといっても当時のこと・・・すべて「口パク」だったのです。
つまり生声をだしてなかったんですね。
そうとも知らぬ中学生は、映像のまんまを信じきり遥かイギリスに想いを寄せていたのです。

 

 

このサントラ・レコードは3種類存在します。
英国盤、米国盤そして国内盤です。とくに上左のレコードはデザインが日本独自のもので

それも赤盤だったら帯付きで○桁のオネダンが付いてしまいます。
やっかいなことに、さらにODEON盤とアップル盤もあり赤盤や黒盤が加わって
マニアの方を泣かせています。
米盤はオーケストラの間奏が入ったり、AND I LOVE HER ではオリジナルLPでは
ポールの一人二重唱なのですが(オーバー・ダブ)、映画のワンシーン
なので実際一人二重唱はありえない
との理由から
独唱のバージョンに差し替えられたりして面白いものが聴けます。

当時はこのデザインのものしか無く、英国デザインのもが紹介・発売されたのは
大分時間が経ってからのことです。
したがって、後発の
英国デザインのレコードのほうが珍しく見えたものでした。
当時このLPは1800円くらいでしたので、毎月シングル盤1〜2枚しか買えない
子供にとっては大金でした。
ですから、市場にはあまり流通せず高値を呼ぶこととなるのです。

「A HARD DAY’S NIGHT」というフレーズはリンゴの口から生まれたとされています。
一日中働いて、時計の針が翌日をさしている頃、
リンゴがだれかに「It’s been a hard day(忙しい日だった)」と言いかけて
もうとっくに夜になっているのに気づき、「’s night」をくっつけたのだという説が一般的です。

リンゴの何げない、そして誤った語法でもあるこの一言が、
映画の雰囲気にぴったりだということで正式なタイトルに採用されました。

ともすれば他の三人で才能の面で比較され、分が悪いリンゴですが
こうしたちょっとした目立たない場面で活躍しているのです。
映画のワンシ−ンで、バックに「ジス・ボーイ」が流れて
リンゴ一人が寂しく街の郊外を歩く姿が、とても印象的でした。


そして早速ジョンが主題歌を書きあげたとされています。
レノン=マッカートニー作もどちらかがイニシアティヴをとって作っているのは
今では常識化してますが、それまではだれもが共作と信じこんでいました。
突破口は、ジョンが米のプレイボーイ誌のインタビュー記事で初めて語ってからの事です。
一曲一曲を挙げて解説して誰が・・・と述べた事件は衝撃的でした。
1980年あたりの頃でしょうか。
あの忌まわしい1980年12月8日の以前のことです・。

サビの・・・when a home♪・・のポールが入り込む瞬間はたまりませんね。
ツインリード・ヴォーカルの醍醐味でしびれてしまいます。














『ポップギア』は過日、NHK衛星のビートルズ関連映画特集で
『バックビート』に続けて放送されました。
1965年にイギリスで製作された当時流行のビートグループを紹介した音楽映画です。
ビートルズの世界的人気に便乗してさらにブリティッシュビートバンドを売り出そうと製作された
意図があるようです。上の画像のバンドやアーティストが多数出演しました。
中学生にとっては、まさに音と映像の万華鏡でした。
アニマルズのエリック・バートンが腰をかがませ独特のスタイルで
朝日のあたる家を歌うシーンなんて、これが本物のロックか!と感動しました。
マンフレッド・マンのソウルフルな歌と演奏にもド肝をぬかれました。
とにかくビックリだらけの世界です。


前述のアニマルズ、スペンサーデイビスグループ、ハーマンズ・ハーミッツ、ハニーカムズ、
ピーターとゴードン等が次々登場して時間の経つもの忘れました。
後年ブリティッシュ・ビートグループの代表格として名を残す連中ばかりでした。
その他にも厩舎風のセットで「タバコ・ロード」を演奏するナッシュビルティーンズや、
ベンチャ−ズでおなじみの「クルエル・シー」の元祖のビリー・J・クレイマー&ダコタス、
ロッキンベリーズ、フォー・ペニーズ、作曲できない?フォーモストも登場してました。
この記憶はその当時のまんまです。
それ以後のテープやDVD(出ているとすればですが)は全く見ていません。NHKの放送もです。
当時の中学生の記憶をそのまま書いているだけです。
それだけ衝撃的な映画だったということでしょう。
素晴らしい音楽映画でした。

この辺を全部ご存じの方はかなりのフリークでしょう。
まさにブリティッシュビート黄金時代でした。それも英EMIのアーティストがとても多かったようです。
英一番のレーベルですので、このおかげで数十年経っても、CDのカタログ化が順調で
編集未発表音源集とかBBCでの録音音源とかが次々と発表され
愉しませてくれます。ありがたいなぁ・・の日々です。
リマスタリングもバッチリで今度は何か?と期待も弾みます。

さて、国内に目を向けてみましょう。

 

杉真理氏の登場です。こういったマージー・ビート系=ビートルズ=ポール直系の
日本人としては正統派として認識されています。
単なる模倣的な評価でなく彼自身の音楽性が高く評価されています。
遡るとナイアガラの大瀧氏とのつながりまでいっていまうので、この稿では置いておきます。
後年松尾清憲らと結成したBOXは日本版ビートルズとも云えるサウンドを展開しており、
多くのミュージシャンから高く評価されています。
TVで伊豆田洋之氏とビートルズ・ソングを歌っているのを見かけます。

みなさん、最近CMでよく流れるこの曲をご存じですよね。

♪ウイスキーがお好きでしょう・・♪のCMソングです。

小雪さんのあの印象的なCMです。
冒頭の○○では・・にところでは、全国の県庁所在地が差し替えられているようです。
○○の夜は、ハイボールですね・・という部分です。
それはさておき、このCMソングの作曲家が杉真理氏なのです。

 

オリジナルは1991年にSAYURI名義で出した石川さゆりさんが歌っています



最近の雑誌の記事です。ビートルズDNAが石川さゆりさんまで及んでいました。

おっと、忘れていたわけでもありませんが、大事なバンドがいました。
ビートルズDNAに純粋に感化され、こんなアルバムまで出してました。



チューリップです。このアルバムはすべてビートルズのカバーというか完コピに近い
作品です。君たちとはもちろんビートルズのことです。
ジャケットは、当時の「ながやす巧」氏や「ちばてつや」氏らが描いているようです。
これはリアルタイムで早速買ってしまいました。
どこまでビートルズに迫れるか?との観点からです。
果たして結果は・・?というと・・・ちょっと詰めが甘いかなァ・・
音が軽いのです。・・財津さんスミマセン・・。
中古市場でも、あまりお目にかからないアルバムです。

 

この二曲は永遠のスタンダードですね。
とくに心の旅は、冒頭からいきなりメロディが上にあがっていく曲調はそれまで無かったので
自信があった・・・との財津氏のコメントを読んだことがあります。
なるほど!そういえばそのとおりと改めて恐れ入りました。



紆余曲折を経て、元気に活動中らしいです。

最後もビートルズで締めくくりましょう。
1964年エド・サリヴァンショーにて・・・シュプリームスまで登場します。

 

 

 

蛇足ながら、あのブルーコメッツもエド・サリヴァンショーに出演したってご存じでしたか?
日本の代表的バンドとしてオファーがあったのでしょうか。ブルー・シャトウのイントロを琴で
演ったとかのエピソードが残っています。






杉本 有美(すぎもと ゆみ、1989年4月1日 - )さんです。

 

 

 

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0037  懐かしの角川三人娘から 来生たかお・・G・オサリバン  そして・・・


また、とんでもないアルバムが!と言われそうです。
三人娘の第一番目は原田知世さんです。
いつも述べていますが、この時期=アナログ爛熟期はカラー・レコードが多くて
つい手が出てしまいます。当然、中古で買ったものですが、このヴァイナルに魅了されてしまう
レコ癖があるようです。それにしても綺麗ですよね。透明です。
1983年の作品でしょうか。

 

 

 

この頃の角川映画の戦略として、レコード会社をどんどん一作ごとに
変えていく、という展開がありました。
これは、当時は何か異様な感じでした。
普通は、とくに事情が無い限り同じレコード会社に契約するものです。
しかし、ヒットが出なければ・・契約解除となります。
野球で言えば自由契約選手ですね。
よほどの事がなければ、まずランクダウンのレーベルへ移籍というお決まりのシナリオです。
この業界の常識を越えて、戦略的に移籍するのです。
目的は、その都度発生する契約金でしょう。
角川映画黄金時代でした。レコード会社としても、たとえ単発でも時代の最先端を行く、
この三人娘の売上は保障されていたようなものでしょうから
リスクを背負っててでも契約した方が得という打算が働いたのでしょう。
原田知世さんだけでも、UPの画像だけで、東芝、ソニー、キャニオンと
渡り鳥のように飛んでいます。

原田知世(1967年11月28日生まれ)


 

後年の原田さんです。すっかりおとなの女性になられました。
ご結婚もされたそうです。
TV番組で、よくナレーションを耳にします。
そうそう、ブレンディでいつも拝見してます。

 

お次は渡辺典子さんです。
他の二人と比べると、なんか地味な印象が伴いますが、
最近の二時間ドラマの役どころのせいでしょうか。
角川ピ−ク後は、ご結婚されたようですが・・離婚されたようです。
この方が一番アイドルらしくなかったでしょうか。

 

左の曲名は、どなたもご存じでしょうが、
これ以後、右のような路線に行ってしまいました。
この方向が、今の彼女を位置づけたようです。
人間・・・人生とは、どう転ぶか分からぬものです。
渡辺典子(1965年7月22日生まれ)


今度は薬師丸ひろ子さんです。
薬師丸ひろ子さんと言えば、やはり「セーラー服と機関銃」ですね。

 
 
こんな、珍しいショットもありました。ホント、あったんですねェ・・・。



大ヒットのジャケも二種類ありました。

 

こんなストーリーでした。今はお見かけしない方も多いです。



後の教師ビンビン物語の野村君も共演してたなんて、
ジャケで初めて知りました。

 

 



以前にも触れましたが、この探偵物語は大瀧氏の作品ですが、
カラー・レコードが数種存在して、コレクター泣かせでした。
ご商売が上手なんですよね。トホホ・・・です。



ところで、この主題歌は来生たかお氏作曲家自身のと、
異名同曲なのはご周知のとおりです。
下のジャケのように、同じキティ・レコードなのでカップリングまでなってました。

 

薬師丸 ひろ子(やくしまる ひろこ、1964年6月9日 - )

筆者も、当時は間違えてしまいましたが、作詞の来生えつこさんとはご夫婦ではなく、
実姉だったのですね。つまり姉弟コンビで大活躍していたのです。

ここから、一挙に本論に展開します。
この来生たかお氏は、20歳ころからピアノを習得したという努力家の方ですが、
一番、影響を受けた海外にアーティストとして、ギルバート・オサリバンを挙げています。
そうです。洋楽に詳しい方なら名曲「アローン・アゲイン」一発で
おわかりでしょう。イギリスのSSWの方です。

 

 

かの、ポール・マッカートニーにして、『僕の次は彼の時代だろう』とまで言わしめた、
天賦のメロディ・メーカーです。
ほかにも「クレア」とか印象的なメロディアスな名曲がいっぱいあります。
上のジャケットの帽子と半ズボンは、デビュー時のトレード・マークでした。
当時、偶然PVを観たことがあるのですが、さすが英国だなぁ・・と思ったものでした。

 

それでは、ポール・マッカートニーのソロの時代と、
ウイングス結成と時代の作品を見ていきましょう。
恥ずかしながら、左のソロ第一作を聴いたのはつい最近のことです。
1970年当時の音楽雑誌の評価がトラウマ?となって聴く気にはずっとなれませんでした。
一人多重録音というのもありましたが、バンドでないという観点からでしょうか。
而して、39年後に初めて聴いてみたら、やはり・・という出来でした。
収録曲とかの知識はありましたが、実際聴いてみてコケテしまいました。
人それぞれに評価とか、想い出とかがあると思いますが、
これはタク録の範囲からは抜け出していない・・という結論でした。
音が貧相で、間が持ちません。
天才にして、この作品です。ご意見もあると思いますが、筆者の感想です。
ところが、右のRAMになると豹変したかのように、
マッカートニー節炸裂で、もう感動!涙、涙の洪水で泣きのメロディが
これでもかと、たたみかけてきます。
前作はビートルズ解散劇の最中に録られたもので、そんな心理状況が
映し出されています。これが事実ではないでしょうか。
後者では、伴侶=リンダを得て生き返ったようなサウンドです。

 

ソロの時代と、ウイングス結成と時代の作品を詳しく見ていくことにしましょう。

 

 

 

亡き、M・ジャクソンとの共演作です。いい時代でした。

 

 

時間とは、こういう感じです。でも、いつの時代もポールはポールです。

 

ところで、リンダ亡きあと、わが子ほどの彼女と結婚して話題になりましたが、
色んな問題を抱えて離婚してしまいました。63歳と38歳でした。

 

最近、このへザー・ミルズ・マッカートニーの過去を英のサン紙がスクープしました。

  

なんと、若いころ、ドイツでポルノまがいの本に出演していたというのである。
ヘザーの弁護士は教育的な性のガイド本だと言っているらしいです
が、
誰が見ても、モロそれですよね。
英のマスコミは、ポールを応援しているみたいです。

熊田 曜子さん(くまだ ようこ、1982年5月13日 - )です。

 

 

 

 


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